鎌倉七口
重要であった切通
三方を山に囲まれた鎌倉は、切通が重要な交通手段でした。鎌倉の外との重要な出入口とされたものを、鎌倉七切通や七口と呼びます。
切通とは、その名のとおり山を削って道を通したもので、交通路であると同時に外敵の侵入を防ぐための重要な拠点でもありました。馬一頭がやっと通れるくらいに道を狭くし、わざわざ見通しのきかない造りにしてあります。鎌倉七口のいくつかは、斜面を垂直に削りとった「切岸」や監視や投石などの拠点に使われた「平場」などの跡を見ることができます。
七口のうち、極楽寺以外はみんな国指定史跡となっています。
極楽寺切通(ごくらくじきりとおし)
極楽寺の開山である忍性が切り開いたとされます。切通は坂ノ下から成就院の崖の下を通り極楽寺門前へと続いています。往時は京都と鎌倉を結ぶ重要な道であったようです。
新田義貞の鎌倉攻めの際、大館宗氏を大将とする軍がこの切通から攻め入ろうとしましたが失敗に終わり、新田軍は稲村ガ崎から攻め入ることになりました。
往時、この切通は成就院山門に近い高さを通る難所であったようですが、
現在はご覧のようにかなり掘り下げられ、完全に舗装された自動車道路となっており、当時の面影をあまり見ることができません。

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巨福呂坂切通(こぶくろざかきりとおし)
建長二年(1250 )、3代執権北条泰時の命により切り開かれたとされています。
鶴岡八幡宮の西側から円応寺前に抜け常陸・奥州へと続く道でしたが、現在は途中で寸断されていて通り抜けることができません。
新田義貞の鎌倉攻めの際、堀口貞光を大将とする軍がこの切通から攻め入ったとされています。
ちなみに鎌倉第五山の一位建長寺の山号は「巨福山」です。
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亀ヶ谷坂切通(かめがやつざかきりとおし)
扇ガ谷の岩舟地蔵堂の前の道から建長寺門前近くへ抜け、武蔵へと向かうための切通でした。現在は整備されて傾斜もゆるやかになっていますが、昔は亀がひっくり返るほどの急勾配であったことからこの名がついたとされます。
以前5月に訪れたときには、坂の脇に白いシャガの花がたくさん咲いていました。今回は7月だったため、両脇に植わっているアジサイもすっかり咲き終わっていましたが、その季節にくることができたらきっと綺麗なのでしょうね。
現在も生活道路として使われています。
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七口番外
青蓮寺近くの切通
鎖大師として有名な青蓮寺の向いの山に見事な切通があると知り、訪ねてまいりました。
かつては生活道路として使われていたようですが、現在は落石の恐れがあるとのことで切通のどちらの入口も固く封鎖されています。
北東側の入口は木々も鬱蒼としていて、切通の様子を垣間見ることすらかないませんでしたが、反対側からはとても深く掘り下げられた切通の様子をはっきりと見ることができます。今まで見てきたなかで、一番狭くて深いのではないでしょうか。切通の中にとり残された街灯が、なんとも物悲しく映りました。
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