ゴールデンウォークの真っ只中、もう真夏かと勘違いしそうなくらいのいいお天気の中、懐かしい山道や切通をたずねみました。
久しぶりに北鎌倉の駅にきてみたら、上下のホームをつなぐ踏み切りの竿が自動に降りる普通の踏み切りになっていました。かつて学生だったころの私は駅員さんがシュッと竿を横に走らせる姿を毎日楽しみにしていたものです。少しさびしく思うのでした。
母校のマラソンコースの山道に十数年ぶりに来てみたら、やっぱり人っ子一人通りませんでした。苔むした林のなつかしいにおいがしました。
この道は地図にも載っていません。教えられないので、写真だけごらんください。
銭洗弁天という名で有名なこの神社の正式名は銭洗弁財天宇賀福神社といいます。
源頼朝が巳の年、巳の月、巳の日夢の中に宇賀福神は現れ「この水を汲んで神仏を供養すれば天下は平和に栄えるであらう」とおつげを受けたので、 早速この地にお祀りしたといわれます。
その後、北条時頼がこの水で銭を洗い、一家繁栄を願ったことにならって人々が銭を洗うようになったそうです。
いつもここは人が多いのですが、巳の日となるとも参拝者で大変混雑します。
源頼朝が伊豆に流されていたときに、夢のお告げで旗揚げを促した稲荷を佐助稲荷として祭ったそうです。たくさんの赤い鳥居と旗に囲まれた階段を登っていくと、木々にかこまれ鬱蒼としたちょっと神秘的な空間がまっています。人が少ないときに来てみたいけれど、それはそれでちょっと不気味かも・・・
鎌倉はもともとリスだらけなのですが、ここのリスは観光客に餌付けされているせいかすぐそばまで近づいてきます。私が写真を撮ろうと携帯を構えただけで、餌をくれるかと近づいてきました。「あげないよ~」と言ったらほかの観光客がかりんとうをあげだしました。う~ん。リス害が結構深刻だから、餌付けはやめたほうがいいですよ。
参道の階段を上りきって右の方へいくと、霊孤泉という泉がこんこんと沸いています。その横の立て札に下記のことが書かれています。
「佐助の稲荷山は往古より麓の田畑を潤す水源の地なり。 生命の基のこの湧水を人々霊孤の神水と称え家々の神棚に供えて 稲荷のご神徳を戴くなり。 今に至るも絶えず沸きいづる霊孤の泉なり。」
永保三年(1083)源頼義の子源義家が後三年の役に出陣するとき、この山頂に源氏の白旗を立て戦勝を祈願したところから「旗立山」や「源氏山」と呼ばれるようになりました。
山頂には源頼朝の大きな像がありますが、義家は頼朝から4代前の祖先にあたります。(義家ー義親ー為義ー義朝ー頼朝)
ここでお弁当を食べていると、突然、源頼朝に扮した人が現れました。その人は頼朝の装束にスーツケース・・・かなり怪しかったです。
本日一番来たかったのが、仮粧坂です。「けしょう」ではなく「けわい」と読みます。 新田義貞の鎌倉攻めとときに激戦地となった場所です。
仮粧坂の名前の由来は、平家の武将の首に化粧をしたとか、近くに娼家があったなどの説あります。
油断ができないくらいに険しくて、でこぼこの坂道になっています。坂が大きく曲がると、デコボコがなくなるかわりに涌き水で道幅全体が濡れているのです。
これは敵が鎌倉へ容易に入ることができないようにわざとこのような作りになっています。鎌倉にある7つの切通しには同じように、通りにくくするための様々な工夫が施されています。
化粧坂を降りてしばらく行くと、岩盤の上に「水鑑景清大居士」という石碑が建っています。
俗に平景清が源頼朝の暗殺を謀り、捕らえられ幽閉された土牢と言われていますが真偽はわからないそうです。
歌舞伎にもこの景清が出てくる話がいくつかあるそうです。
海蔵寺は臨済宗建長寺派の寺で山号は扇谷山です。建長5年(1253年)に 鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって建立されました。
鎌倉が滅ぼされたときに兵火によって全焼しましたが、応永元年(1394年)に足利氏満の命により山内上杉憲定が再興しました。
海蔵禅寺の手前の駐車場らしき場所にはよくみるとそこら中に穴が掘られています。これらはやぐらといって中世につくられた墳墓です。
十六の井は海蔵寺の奥にあります。この井戸を見るために拝観料100円を払い、さっそく十六の井へ。
境内の岩窟の中にある鎌倉時代の井戸です。中央奥に観音菩薩を祭り、その下に弘法大師像が安置されています。井戸の穴が十六個あり清らかな水をたたえています。暗い岩窟の中がのぞけるように、懐中電灯が置かれています。柵に「水が汚れるのでお金を投げないでください」と張り紙がしてありました。
たしかに手前の方の小銭が投げ込まれている穴は、少し水が汚れていました。なぜ日本人はすぐに小銭を投げたがるのでしょうか。
この坂に差し掛かる前に、手持ちのお茶が空になりました。日差しが照りつける中、この長い坂を上るのはけっこう疲れました。上りきったあたりには削られた崖がむき出しになっています。だらだらと長い切り通しの坂を登って降りると、そこはもう建長寺です。
亀ヶ谷坂の切り通しを抜けるとそこはもう建長寺です。今日のとろこは建長寺は通り過ぎ、目指すは巨福呂坂切り通しです。しばらく探すも見つからずというより・・・疲れてきていた私たちは断念したのです。
後日わかったことですが、今は途中で寸断されていて通れないそうです。こ
の道から圓應寺の近くへ抜けることができたそうです。
治承四年(1180)鎌倉入りをした源頼朝が、祖先の頼義の建てた由比若宮を現在の地に遷座して鶴岡若宮と称しました。
神仏分離の政策によって、現在では神社として知られていますが、創建当初は鶴岡八幡宮寺という大規模な寺院でした。
頼朝が鎌倉に建立した寺院は3つで、勝長寿院、永福寺そしてこの鶴岡八幡宮寺ですが、現在唯一残っているのがこの鶴岡八幡宮です。
私にとって子どものころから通いなれ、神社の中で一番なじみのある鶴岡八幡宮・・・。
子どもの日のこの日は菖蒲祭で、ちょうど舞殿で舞楽が舞われていました。
鎌倉大仏は民間人が資金を出し合って造られました。寛元元年(1238年)に最初の木造の大仏がたてられましたが、宝治元年(1247年)の大風で破壊されたので、建長四年(1252年)に青銅の大仏がたてられました。当初は全身に金箔が施され、大仏殿に安置されていましたが、その後の地震と津波で大仏殿は破壊されて現在の姿となりました。
神奈川生まれの神奈川育ち、そして鎌倉の学校に通った私は大仏といえば鎌倉の大仏だと思っていたので、修学旅行で初めて奈良の大仏を見たときには、大仏殿の中に安置されていることや顔が面長なことに違和感を覚えた記憶があります。私は鎌倉のふくよかな大仏が好きです。
十数年ぶりの鎌倉は行きたいところがいっぱいで、一日では時間が前々足りません。見つけられなかった切通しやコースに入れられなかった史跡などを探しに、また近いうちに訪ねたいと思います。