当尾 水くみ地蔵 関西寺社史跡めぐり 2006秋「石仏と塔」


二ヶ月前に行ったばかりではありますが、心残りが多いので秋の京都・奈良へ行ってまいりました。前回の反省を踏まえ、欲張りになりすぎないように計画を立てたつもりですが・・・まあ、次に課題を残すというのもいいものです。 (2006/11/2~4)

   ◇当尾    ◇明日香    ◇奈良    ◇京都


当尾石仏めぐり

石仏にあいたくて奈良駅からすぐにレンタカーに乗り込み2ヶ月ぶりの当尾へ向かいました。
今回は歩きにとられる時間を節約するために、ポイントポイントへは車で移動をしました。途中ものすごく狭い道があり、小型車を借りてよかったとつくづく思いました。これから行こうと思われている方は、さらに小さい軽自動車を借りるほうがいいと思いますが、時間と体力が許す限り山道を歩くことを強くお勧めします。

当尾石仏マップ
丁石①丁石②

丁石

加茂の里から浄瑠璃寺まで一丁ごとに置かれた笠塔婆で、上部には梵字が刻まれています。鎌倉時代に建てられたもので現存するのはこの4本のみとなっています。

丁石③丁石④
辻堂(つじんど)の焼け仏

辻堂(つじんど)の焼け仏

1番目の丁石のすぐ近くにある2mほどの石仏で、火災にあって焼けてしまった仏様です。
中央に阿弥陀如来、両脇に地蔵菩薩と十一面観音が刻まれているそうなのですが、風化が激しく見分けられませんでした。

たかの坊地蔵

たかの坊地蔵

西小のバス停より少し進んだところの公民館の横に、たかの坊地蔵と小石仏が多数たたずんでいます。
舟形の光背の矢田型の石仏がたかの坊地蔵で鎌倉時代につくられたものです。風化がはげしく分かりにくいのですが、錫杖を持たないお地蔵さまが刻まれています。
そのほかの小石仏は室町時代に作られたものだそうです。








西小(にしお)地蔵群

西小(にしお)地蔵群

西小地蔵群には、 埋没や盗難などから守るために周辺の小石仏がここに集められています。その数には圧倒されます。





五輪塔(重要文化財)

五輪塔(重要文化財)


西小墓地入口にある二基の五輪塔で、この墓地全体の供養塔として鎌倉時代に建てられたものです。
五輪塔は上から虚空、空気、太陽の熱と光り、水、大地(下から地、水、火、風、空という)という生命の五大元素を表しており、それを司る大日如来の永遠なる宇宙の理法そのものとしてとらえられた仏のあり方を表しています。


地蔵尊

道端にひっそりと佇んでおられました。






小仏三体

小仏三体

道の脇にぽつんと置かれています。気をつけていないと見過ごしてしまうほど、ひっそりとそこにおられる仏様です。







浄瑠璃寺奥の院不動明王磨崖仏

長尾磨崖仏の手前に、浄瑠璃寺奥の院へ向かう遊歩道があります。少し足場の悪い道を下っていくと、川の音と共に異臭がし始めました。硫黄臭いのかと思いきや、そこに流れている川はゴミだらけで水もとても汚く悪臭が充満していました。その悪臭を何とか吸わないようにして丸太橋を渡ると、そこには湧き水が滝になっている崖が現れ、不動明王像が矜羯羅童子・制咤迦童子を従えて立っておられました。

浄瑠璃寺奥の院へ向かう遊歩道丸太橋
不動明王像が矜羯羅童子・制咤迦童子

後から知ったのですが、かつて大岩に線彫りされた不動明王磨崖仏があったのですが、数十年前の大水によって岩が割れて崩れ落ちてしまったので、近年この立像がたてられのだということです。 今でも水にぬれているあたりの岩をよく見れば、線彫りの痕跡を見つけることができるのだそうです。
それにしても、あの川は何とかならないものでしょうか。






長尾の阿弥陀磨崖仏

長尾の阿弥陀磨崖仏

笠を乗せためずらしい形の大きな石が崖の上に置かれ、 蓮の上に座られた阿弥陀如来が彫られています。
大きく斜めに亀裂が入ってしまっていますが、補強されていいて崩れる心配はないようです。
カーブになっているところなので、お見過ごしのないように。







欠けた三尊仏

欠けた三尊仏

もとは室町時代に彫られた磨崖仏でしたが、道路の拡張工事にともなって移動されたときに欠けてしまったのだそうです。





浄瑠璃寺

三重塔

平安時代に貴族たちが思い描いた極楽浄土を形にしたお寺で、池を挟んで三重塔側が現世である此岸、本堂側が彼岸とされています。
三重塔には東方浄瑠璃世界に住み、現世の苦しみを除いてくれるという薬師如来が祀られており、本堂には西方極楽浄土の教主である九体の阿弥陀如来が祀られています。
今回、秘仏である吉祥天女立像の公開期間だったので運良くお会いすることができましたが、浄瑠璃寺にはまだ薬師如来像と大日如来の両秘仏にお目にかかれずにいるので、まだまだ通うことになりそうです。







池のほとりの此岸と彼岸 境内の石仏境内の石仏
水くみ地蔵

水くみ地蔵

浄瑠璃寺の参道脇をどんどん歩いていくと、林の中の日当たりのいい開けた草地に水くみ地蔵があります。
このお地蔵さまも火災にあっており、風化が著しいのがわかります。 水くみ地蔵のそのすぐ足元には、いまも水が絶えず沸いていています。







一鍬地蔵

一鍬地蔵

前回も訪れましたが写真には全く写りませんでした。今回は光の加減がよく、線彫りの一部分をうっすらとですが撮影することができました。












カラスの壷磨崖仏

水くみ地蔵からひたすら細い山道を歩き、一鍬地蔵の前を通り、前回左側面にあるお地蔵さまに気がつかずに通り過ぎてしまったカラスの壷磨崖仏へ向かいました。
湧き水で足元がぬかるむなか、左側面の地蔵を撮影しました。笑い仏に限らず、この辺りのほとんどの仏様は微笑んでいるように見えます。

カラスの壷磨崖仏 カラスの壷磨崖仏

首切り地蔵

こんな道に本当に車で入っていいものだろうかと不安になるほどの細い道にはいると、消防センターの横に阿弥陀如来石仏があります。首切り地蔵などという物騒な名前がついていますが、首の切れ込みが深いため、そう呼ばれているようです。
この道沿いは、車を道のど真ん中に止めて見なくてはいけないので、あまりじっくりと拝見せずに次々移動しました。


大門石仏群

大門とは、かつて浄瑠璃寺の大門があったので地名として残っているそうです。西小地蔵群同様保存のために、あちこちに点在していた仏様を集めてここに置いたそうです。
西小地蔵群と違って大門は鬱蒼とした場所にあり、なんとも雰囲気のある場所でした。

大門石仏群大門石仏群

大門ほとけ谷 阿弥陀磨崖仏

崖の向こうの山肌にひときわ大きい阿弥陀磨崖仏が現れます。当尾石仏の中で最大の磨崖仏です。
昔はすぐ下までいく道があったそうですが、今は草などに埋もれてわからなくなってしまったそうです。谷を挟んだ道から拝見します。
あまりに見事で見とれていたら、地元の方の軽トラックがやってきたので、あわてて車を移動しようとすると、少しよけるだけでいいと言ってくれました。走り去るときに「ゆっくり仏さん拝んでいきなさい」と言ってくれたやさしい笑顔が印象的でした。





弥勒の辻磨崖仏

岩船寺バス停近く、笑い仏への分かれ道の入り口に、線彫りの弥勒菩薩磨崖仏があります。だいぶ風化がすすんでいて、お顔のあたりがわかりにくくなっていました。












三体地蔵

車道の脇に岩船寺に向かう細い山道があります。上ってすぐに、首のないお地蔵様があります。さらに落ち葉を踏みながら急な坂をのぼっていくと、右側の崖の上に三体地蔵が現れます。
ここのお地蔵様も微笑んでいるように見えました。




ふたたび明日香へ

当尾から明日香へ・・・。夕暮れ時の飛鳥には、真夏とは違う空気が流れていました。前回はマウンテンバイクを借りてがつがつとまわりましたが、私が妊婦のため今回は徒歩とかめバスでじっくりとまわりました。

明日香マップ

民宿 脇本

今回予約したのは民宿 脇本という、築約250年の歴史ある宿です。泊まる部屋は新築の建物で、窓から天武・持統両天皇の檜前大内陵を眺めることができます。
食事は築250年の母屋でいただきました。夕食時には、旅行好きなおじさま方や万葉研究家の方などがいらして、色々とお話を伺うことができました。こういうところならではの経験ができてよかったです。
明日香村の民宿は、飛鳥京観光協会が窓口になっていますので、ぜひお問合せください。

民宿脇本築250年の母屋

額田王歌碑

宿でご一緒した万葉研究家の方に聞いて、民宿脇本さんの裏山にある歌碑を尋ねてみました。敷地内から山へ登っていくため、話を聞かなければ歌碑の存在すらわからないような場所にありました。 この歌碑のあるところで額田王は息をひきとったと言われているそうです。
歌碑には次のように書かれています。
『いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我が念へるごと」』
この歌は天武天皇の皇子である弓削皇子が額田王に送った『いぬしえに 恋ふる鳥かも 弓絃葉の 御井の上より 鳴き渡り行く』 への贈答歌なのだそうです。 「昔を思い慕う鳥なのでしょうか。弓絃葉の御井の上を泣きながら渡っていきました」という弓削皇子の歌に対して額田王は「いにしえの恋を慕う鳥はホトトギスです。我が思いのごとく鳴いたのかもしれません」という歌を返したのです。
30歳ほども年上の父親の妻だった人に対して、弓削皇子はどういう思いでこの歌を贈ったのでしょうか。

天武・持統天皇陵

民宿のすぐ前にある丘の上に、天武・持統天皇陵があります。かつての大地震でこの丘が崩れ、中の石室が見えたときの絵のコピーが民宿に保管されていました。写真を撮らせてもらえばよかったと後悔しています。

天武・持統天皇陵天武・持統天皇陵

亀石

前回も行きましたが、なんとも愛らしい亀石に会いたくてまた今回も行ってしまいました。
亀石の横には売店があって、売店が開いていないときでも無人の販売所があります。地元で取れた飛鳥芋や色々な野菜などが売っていました。犬のさんぽのおじいさんの話によるとお金を払わずに持っていってしまう心無い人もいるそうです。
亀石の周りののどかな風景の写真をつなげてパノラマにしてみました。→パノラマ写真へ

お隣の売店亀石

橘寺

仏頭山上宮皇院 橘寺は天台宗のお寺で、敏達天皇元年(572年)に聖徳太子がここで誕生したとされています。
境内には、太子が誕生したときに日・月・星の光を放ったといわれている三光石、太子が梵字をかたどって作ったといわれている阿字池や、二面石などがあります。この二面石は人の心の持ち方を表したものだそうで、左悪面、右善面というそうです。
ちょうど太子堂修復工事中だったので、外観を見ることはできませんでしたが、中に入ることはできました。

阿字池三光石 橘寺 観音堂二面石

河原寺跡

復元された礎石が並ぶ広い敷地があります。天智天皇が母斉明天皇のために建てた川原寺の跡ということです。
一塔二金堂に三面僧房をめぐらした荘厳な伽藍であったそうですが、調査後は埋め戻され、位置を示す礎石が並べられたそうです。

河原寺跡寺跡に咲くコスモス

高松塚古墳

修復中とは聞いていたものの、まるでICUに入れられて生命維持装置をつけられているような高松塚古墳にはとてもショックでした。
壁画を維持するために剥がして保管する方法をとるそうですが、まだ手付かずの状態だそうです。高松塚古墳のすぐとなりに壁画館があり、そこで模写した壁画や石室実物大模型を見ることができます。模型の石室は思っていた以上に小さく感じました。


水落遺跡

かつてここに水時計の建物があり、その周りを塀で囲まれていました。ここから都へ時を告げたり、天文、暦、占いなども担当した役所だったと推測されます。



板蓋宮跡

当時の宮は茅葺や桧皮葺でできていたのに対して、板蓋でできていたためこの名前がついたそうです。中大兄皇子らによる蘇我入鹿暗殺の舞台となったところと言われています。水落遺跡や板蓋宮跡など、きれいに整備されてしまっていると、なんとも味気ないものです。




奈良お寺めぐり

當麻寺

聖徳太子の教えにより、弟の麻呂子親王が万法蔵院を河内に建立しました。その後親王の夢見にしたがって當麻国見が役行者が開山した地へ移したのが當麻寺です。
曼荼羅堂(本堂)には立派な厨子に収められた曼荼羅を本尊として祀っています。
かつて本堂であった金堂には日本最古の塑像弥勒菩薩が祀られ、こちらも日本最古の乾漆・四天王が四方を守護しています。
講堂には阿弥陀如来や妙幢菩薩、地蔵菩薩などが祀られています。二基の三十塔はともに国宝で、山の中にひっそりとたたずんでいました。
當麻寺には「だらにすけ」という役行者が作ったとされる丸薬があり、胃腸の良薬として知られているそうです。

仁王門曼荼羅堂 東塔西塔

興福寺

藤原鎌足の病気平癒を祈願して夫人が建てた山階寺を帰源とし、藤原京の遷都で移った高市郡厩坂の地名から厩坂寺と称し、和銅三年(710)の平城京遷都では藤原不比等によって現在の地へと移され興福寺と改められました。
不比等の死後、藤原氏の私寺から国家の寺へとなり興福寺の造営が進められていきました。創建以来たびたび火災にみまわれ、焼失と再建を繰り返してきた興福寺も明治の廃仏毀釈により子院は全て廃止、寺領は没収されて一時は廃寺のような状態まで陥ったそうです。
その後ようやく興福寺の再興が許されてお堂や塔の修復が行われ、徐々に寺観が整備されていきました。廃仏毀釈によって日本からいったいどれほどのものが失われてしまったのでしょうか。

三重塔猿沢池にうつった五重塔

東大寺

正倉院展に並ぶ行列を横目に、東大寺へと向かいました。まだだいぶ離れているというのに巨大な大仏殿が見えてきました。ここを訪れたのは中学の修学旅行以来のことで、こんなにも巨大だったこということをすっかり忘れていました。
この大仏殿は何回か建て替えられているのですが、最後の立替のときに予算の都合でもともと11間あったところを7間に減築したそうです。今でも十分大きいのにさらに横に4間も大きかったなんて・・・
かつて大仏殿の両脇にはそれぞれに回廊をもつ推定100mもの東西の七重塔が建っていたのだそうです。興福寺の五重塔が50.1mですので、恐ろしいほどの大きさだったのでしょうね。

 金堂(大仏殿)盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)

元興寺

奈良町にある元興寺は世界遺産に登録されています。飛鳥の法興寺を平城京遷都に伴い移転し、元興寺となりました。(飛鳥の法興寺も元の場所に残り、現在の飛鳥寺となっています)。
本堂の後方の屋根には、かつての法興時の瓦が使われています。訪ずれる機会がありましたらお見逃しなく。
お寺の収蔵庫にある国宝の五重小塔は室内にあったために保存状態がよく、その造りは見事です。こちらもぜひご覧になってください。

元興寺飛鳥瓦
元興寺の禅室

追記 現役最古と判明

総合地球環境学研究所の光谷拓実客員教授の調査により、元興寺の禅室に使われている建材が現役最古であることが分かりました。今まで世界最古といわれてきた法隆寺の建材よりも、約100年も古い飛鳥時代初期(586年ごろ)に伐採されたヒノキが使われているそうです。
これにより飛鳥寺からの移築の可能性が高まったということです。


夕暮れの京の都へ

東寺五重塔

東寺

京都駅から徒歩で10分ほどのところに東寺があります。東寺真言宗の総本山で「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院」という2つの正式名称をもちます。
創建は古く延暦十五年(796)とされ、弘仁十四年(823)には空海が嵯峨天皇より東寺を給預されました。鎌倉時代になって弘法大師信仰が高まるとお大師様の寺として信仰を集めるようになったそうです。 その後も時の為政者による援助を得て栄えていきました。文明十八年(1486)の火災によりほとんどの堂塔を失いましたが、豊臣家や徳川家の援助により再建されていきます。
講堂が延徳三年(1491)の再建で、慶長八年(1603)には豊臣秀頼の寄進により金堂が再建され、寛永二十一年(1644)には徳川家光によって五重塔が再建され現在に至ります。
東寺の五重塔は54.8mmあり、現存する古塔の中では最も高いものです。

講堂には大日如来を中心にした五智如来、向かって左に五大明王、右に五菩薩、そしてまわりに四天王と梵天、帝釈天を配置し、計21体の仏像で立体曼荼羅がつくられています。一体一体もまた見事でした。
国宝の金堂には、薬師如来坐像を中心に日光菩薩、月光菩薩が両脇に配置されており、ここを訪れたのが夕暮れ時だったので窓から差し込む光が仏像の後輪を壁に映し出していて、とても幻想的な空間となっていました。本当に美しく、ずっと眺めていたいと思いました。

金堂講堂

清水寺

清水寺とは、音羽山よりこんこんと湧く霊泉に由来してつけられた寺名で、山号は音羽山といいます。
宝亀九年(778)に賢心のちの延鎮上人によって開かれました。賢心は霊夢に従ってこの地にたどりつき行叡居士という修行僧と出会い後を託されるのです。 行叡が観音菩薩の化身であったと悟った賢心はここに草案を結んで千手観音を祀り、観音霊地を見守っていました。
その後、妻の病気平癒のために鹿の生き血を求めてこの地へやってきた坂上田村麻呂は、賢心と出会い、殺生の罪を説かれて観音様に帰依し自邸を仏殿として寄進したといわれています。 このため清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、坂上田村麻呂を本願としているのだそうです。

左から三重塔  本堂  子安塔

仁王門からはいってすぐに三重塔が目に付きます。寛永九年(1632)に再建された塔で、ここには大日如来が祀られています。 各階の屋根の四隅に如来、明王、天の梵字のある鬼がわらがあり、東南の角の鬼がわらは火伏せのために水神である龍になっています。 夜になるとこの三重塔はライトアップされていました。
清水の舞台で有名な本堂は寛永十年(1633)に再建されたものです。 本堂から張り出した舞台は36m強あり4階建てのビルの高さに匹敵しますが、懸造りという手法で造られたこの舞台には1本の釘も使われていません。 桧の板が敷き詰められたこの舞台は、本来観音様へ雅楽や能、狂言、歌舞伎、相撲などを奉納する場所なのだそうです。

夕暮れの京都

内陣には本尊千手観音と地蔵菩薩・毘沙門天が祀られています。ほとんどの人は舞台だけを見て通過していきましたが、外国の方が本堂の片隅で熱心に祈られているのが印象的でした。
少し奥まったところにある小ぶりの塔は子安塔といって、聖武天皇と光明天皇の祈願所であったと伝えられていますが創建時期は不明です。現在の塔は明応九年(1500)に再建されたものです。 明治の終わりまでは仁王門の左手前にありましたが、その後本堂より南側の丘の上に移築されました。 子安塔には子安観音(千手観音)を祀り、安産の信仰を集めてきたました。(現在では修復され、見違えるほどの朱塗りの美しい塔になっているそうです)

京都で初めて見る月は、満月より1日手前の小望月でした。