昔から鎌倉はあまり良い水にはめぐまれない土地だったため、良水の涌く井戸は大変貴重でした。十井は江戸時代に伝説やいわれなどがある井戸を名数で紹介したのが始まりです。
扇ノ井は、源頼朝の娘大姫の守仏が祀られている岩舟地蔵堂の向かい道の一本浄光明寺よりの路地にある個人宅の裏山の裾にあります。。名前の由来は扇の形をしているからだとか、静御前が扇をおさめたからだとおい説があります。個人宅のため見ることはできませんが、この写真の少し奥辺りにあるようです。
左に写っているのは、源頼朝と北条政子の娘大姫のために建てられた岩船地蔵堂です。
巨福呂坂から続く尾根のひとつが、岩船地蔵堂の約50m手前あたりまで延びています。その一番先端部分には複数のやぐらが見受けられ、そのふもとに扇ノ井がありました。
そこは個人宅のため近寄ることができませんが、道から失礼して写真を撮らせていただきました。
浄光明寺の門前の坂を少し上ったところにあります。以前ほどの勢いは無くなったものの今でもきれいな水が湧き出ており、井戸も当時の趣をとどめているそうです。 この辺りはこの井戸の名前から泉ヶ谷(いずみがやつ)と呼ばれているそうです。
明月院の境内の宗猷堂(そうゆうどう)のすぐ近くにあり、甕の井ともよばれてます。岩盤を直接くり貫いて造ったとみられ、内部が水瓶のように膨らんでいることから瓶の井と呼ばれ、現在でも使える貴重な井戸だそうです。
小町通の鶴岡八幡宮よりにある井戸で、鶴岡八幡宮や壽福寺、新清水寺などを焼いた正嘉二(1258)年の大火事で、新清水寺にあった鉄造観音像が土中に埋もれてしまったそうです。後年この井戸からその鉄造観音像の頭部が見つかったため、この名がついたとのことです。
井戸の向かいにお堂を建てそこへその観音像の頭を祀っていたのですが、明治の廃仏毀釈でお堂は壊され、祀られていた観音像は鉄クズ屋に引き取られ運ばれていきました。ところが人形町あたりでどうにもこうにも観音像が動かせなくなり、そこにあった大観音寺に祀られたという言い伝えがあります。現在も人形町の大観音寺のご本尊として祀られています。
安達泰盛の娘で金沢顕時の室になった千代能が水を汲んだとき、桶の底が抜けて「千代能がいただく桶の底抜けて 水たまらねば月もやどらじ」と詠んだからだとか、上杉家の尼が修行をしていたときに、水を汲むと桶の底が抜けて「賤の女が いただく桶の 底抜けて ひた身にかかる 有明の月」と詠んだからなどと言われています。
井戸は海蔵寺門に向かって右脇にあるのですが、古い文献の地図を見ると、この井戸は門に向かって左にあるので海蔵寺の門の位置が昔とだいぶ違っているということでしょうか。
古い文献の地図に載っている井戸の位置が、現在と違うことが気にかかっていましたが、先日受けた講習でそのわけを知ることができました。
文献の地図が書かれた時期よりもずっと以前は、現在と同じように門に向かって右側にありました。その後がけ崩れによって井戸が埋まってしまったため、文献にあるように門の左側に造られたとそうなのです。そしてその後、やはりもとの位置へ戻したほうがいいだろうということで、井戸はもとあった位置に移されたということです。
坂ノ下の虚空蔵堂の階段下にあります。昔この辺りは昼なお暗く、昼間でも井戸に星が輝いて見えたという言い伝えから名前がついたようです。近所に住んでいた卑女が誤って包丁を落としてから、星は見えなくなってしまったといわれています。 すぐ横には虚空蔵堂へ上る階段があります。星月ノ井とお堂は関わりが深く、この井戸に虚空蔵菩薩が現れたので行基が像を彫ってお堂にまつったとされています。
覚園寺の山の上にあり、かつて弘法大師がこの水を閼伽水として仏に備えたと伝えられています。井の形が家の棟の形をしていることから、この名がついたといわれています。山肌に造られた横井戸で、流れ出てくるところを堰き止めた形の井戸だそうです。その上に屋根がつけられているそうです。
残念なことに現在は山崩れにより、埋もれて確認ができないとのことです。
長勝寺近くの美容院脇のとても狭い路地にあります。気をつけて探さないと見落としてしまいそうな路地の隅にひっそりとありました。 井戸の形がお酒をそそぐお銚子に似ていることから、この名がついたとされます。 また、蓋や側面が石でできているので、石ノ井ともよばれています。
材木座の海際の道にあります。
平安時代の弓矢の達人であった源為朝は保元元年(1156)の保元の乱で敗れ、二度と弓がひけないようにと、腕の筋を切られていず大島に流されてしまいました。
しかし、自分の腕をためしてみたかった為朝は、大島から鎌倉の天照山(光明寺裏山)めがけて矢を射たところ、この井戸に落ちたと伝えられています。
この井戸は八角形ですが、鎌倉側に六画あるためにこうよばれているそうです。
大町の住宅街の奥に、鎌倉にある井戸としては最大の六方井があります。その大きさゆえに井戸というより池という印象でした。良い水の少ない鎌倉では、いまだかつて一度も枯れたことのないこの井戸は大変貴重な水源でした。
訪れたときにたっぷりと水をたたえていたので見ることはできませんでしたが、井戸の壁面に龍頭という出っ張った部分があり、水位が下がってそれが現れると雨が降ってまた井戸が満たされると言われています。
この井戸は妙本寺と尾根をはさんで存在し、蛇苦止堂にある蛇形ノ井と水脈が同じといわれており、蛇形ノ井に身を投げた比企能員の娘で源頼家の側室となった若狭局が蛇神となり、今でもこの二つの井戸を行ったり来たりしていて、水面にさざなみがっているときには若狭局がそこに来ていると言われています。
海蔵寺の境内の西側のトンネルをくぐると、右側の崖の岩窟にあります。
その名のとおり、16個の丸い井戸が4×4列並んで水をたたえています。
一つの穴の大きさは直径70cm、深さも50cm程度ですが、すべての穴に清涼な水が滾々と沸き、涸れることがなおといわれています。この水は甘く、冷たく、柔らかく、軽く、清浄、無臭、飲んでのどを損しない、飲んで患いがないという8つの特質がり、古来より金剛功徳水とよばれてきたようです。
かつては正面の壁面に青銅製の観世音菩薩が祀られていたそうですが、現在は石仏を祀っています。
観世音菩薩が禅師の夢枕に立ち、弘法大師が金剛功徳水を以って加持をし、この水を授けて薬を煎じて与えると、悪病を祓いのぞくことができたが、度重なる天災でこの井が埋もれてしまったので、この井を掘り起こして掃除をすれば清水が湧き出て再び霊験があらわれると告げられたので、禅師は教えの通り井を掘りおこすと観世音菩薩像も出てきたそうです。そして加持をし、その水を与えると霊験あらたかであったと扇谷山海蔵寺略寺縁起に書かれています。
やぐらであるという説もありますが、仏教において十六という数には関わりが深く、この井も十六菩薩に捧げる功徳水であると考えるほうが正解なのではないかと思うのです。
いつまでもこの清涼な水が湧き続けてくれることを願っています。