関西花の寺二十五か所
関西花の寺二十五霊場とは、近年、京都、奈良、大阪、兵庫、滋賀、和歌山の六府県の花で名高いお寺が集まって、
「それぞれのお寺に咲く美しい花を媒介に、一般の人々と仏教寺院との接点を見いだし、それを契機に少しでも世の中のお役に立つような明るく健全な社会づくり、人々の心豊かな人生づくりに貢献できる霊場をとの願いで結成されたもの」です。(山と渓谷社「関西花の寺二十五カ所」より引用)
遠方であることや広く点在していることから、鎌倉の霊場のように発願から結願までを順序通りにめぐることはしません。また、行ける機会が限られているため、その寺々の花の美しい季節に行くこともなかなかできませんが、10年ほどかけて全てをめぐるのもいいものではないかと思っています。
聖徳太子が、この地に身を隠していた恵便法師の教えをうけるために訪れたことから、後に秦川勝に命じて刀田山四天王寺聖霊院を建てたことが鶴林寺の始まりと伝えられています。
ご本尊は秘仏の薬師如来で、60年に一度開帳されます。次回の開帳は平成69年とのことです。
訪れたこの日は28日だったため、不動明王の縁日ということで護摩堂が開かれており、不動明王を拝観することができました。
太子堂は平安時代のもので、内部には壁画が残されているそうですが煤けて肉眼でみることができないとのことです。本堂は室町時代に建てられたもので、本尊の薬師如来、日光・月光両菩薩、毘沙門天や持国天などが祀られています。太子堂・本堂ともに国宝です。
新薬師堂にはりっぱな薬師像が祀られているのですが、江戸のころの新しい像という説ともっと古いものだという説に分かれているそうです。 その丸みをおびた姿には、鎌倉の大仏様や建長寺の地蔵菩薩を思い起こさせるものがありました。 もしかすると宋朝様式の広まった鎌倉時代のものかもしれないと、勝手に想像を膨らませました。
岩船寺は天平元年(729)、聖武天皇の発願で、行基によって建立されました。
平安初期には密教儀式の道場として、空海の甥である智泉が報恩院を建てられたそうです。
後に嵯峨天皇が皇子誕生を祈念し、後の仁明天王を授かったため、弘仁四年(813)に皇后が伽藍を整えて岩船寺となりました。(門前に置かれている石風呂から「岩船寺」とされたとも言われています。)
本堂横の池の周りにはアジサイの株がたくさんあり、「アジサイ寺」とも呼ばれています。数年前に補修された三重塔には、邪鬼がいるので、訪れる機会がありましたらぜひ探してみてください。
本堂にはたくさんの仏様が祀られているのですが、ご本尊の阿弥陀如来は平安時代の作とのことで、想像以上に大きく、眺めているととても優しく包まれているような心地がしました。
ご住職に「鐘をついていかれなさい」とおっしゃっていただいたので、塔の左上にある鐘をつかせていだきました。
岩船寺や浄瑠璃寺のある当尾(とうの)と呼ばれるこの地域は、鎌倉時代などの石仏や磨崖仏が多く点在しており、岩船寺境内にも不動明王坐像などの石仏を拝見することができます。
今回は時間の関係で石仏めぐりはできませんでしたので、当尾石仏群に関しては「当尾の古寺と石仏をめぐる」や「当尾石仏めぐり」をご覧ください。
当尾を訪れるのは、今回で三度目となりました。
参道の両側に立ち並ぶ樒は、小さい花をたくさんつけていました。浄瑠璃寺の参道は、なぜかしら雨がよく似合います。
山門をくぐると池を中心に浄土式庭園が広がっています。左手に三重塔があるのですが、修繕のためにすっかり覆いがかけられていてその姿を見ることはできませんでした。 浄瑠璃寺は、永承二年(1047)、義明上人によって開かれました。池の右手にある本堂は平安末期のものだとのことです。三重塔側を此岸(東方浄瑠璃世界)として薬師如来が祀られ、池の西側にある本堂を彼岸として本尊である九体の阿弥陀如来坐像が祀られています。
本堂の正面が開かれても、外からでは九体の阿弥陀像のお顔を拝見することはできませんが、池にくっきりと映し出された九体の阿弥陀像を、以前映像で拝見したことがあります。まさしくこの世のものとは思えないものでした。
本堂内には他にも四天王や不動明王像、普段は厨子に入られている吉祥天女像、そして子安地蔵像などが祀られています。いつも思うのですが、暗く静まりかえったその空間の中では、時間の流れが他と違って感じられるのです。
浄瑠璃寺には他にも、秘仏の大日如来坐像が灌頂堂に祀られています。2006年に修復作業により、近年の修復で厚塗りされた泥の下地がのぞかれ、本来の美しい姿になり戻ってこられました。私は自分の守護尊の中で、特に浄瑠璃寺の大日如来坐像がとても好きです。ご開帳されるのは一年のうち3日間だけ・・・でもいつかはお目にかかりたいと願っています。
般若寺は、広大な奈良公園のすぐちかくにひっそりとありました。
寺伝によれば、629年(舒明天皇元)に高句麗の僧慧灌によって創建され、735年(天平七)には聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて大般若経を安置したとのことですが、裏付ける資料がないため不明な点が多いそうです。
1180年(治承四)の平重衡による南都焼き討ちにあい、東大寺や興福寺などと一緒に焼失してしまいました。鎌倉時代に入ってから修復再興されたとのことです。ですが、戦国時代にも主要伽藍や文殊菩薩像を兵火により焼失し、明治の廃仏毀釈では再び寺は荒れ、しばらくは無住の状態が続いたそうです。第二次世界大戦後になってやっと修復が行われ、現在のように整備されました。
楼門は、入母屋造の本瓦葺きの2階建ての門で、鎌倉時代に建てられたものだそうです。高さが12.6mもある大きな十三重石塔も鎌倉時代に再建されたもので、日本の代表的な石塔の一つとされています。
境内にはあちこちにたくさんの石仏が置かれており、その合間には水仙が雨に濡れながら品よく咲いていました。秋にはコスモスが境内一面に咲き誇るのを見ることができるそうです。
白毫寺は春日大社から1kmちょっと南へ行ったところの山麓にあります。霊亀元年(715)志貴皇子の死後、志貴皇子の山荘跡に天智天皇が白毫寺を建立しました。
もともと志貴皇子の山荘があった場所だけあって、境内からは奈良盆地を一望できます。
室町時代の兵火で建物は焼失し衰退していきましたが、寛永のころに興福寺の空慶によって再興されました。
ご本尊の阿弥陀如来は、平安末期から鎌倉時代のころに作られた檜の寄木造です。ちなみに、如来の眉間に生えている右巻きの白い毛のことを、白毫というそうです。
境内には奈良三名椿のひとつで奈良県の天然記念物に指定されている五色椿が植えられていますが、この時はまだ咲いていませんでした。五色椿は寛永年間に興福寺の塔頭喜多院から移植されたもののようです。
本堂より一段上がったところには、不動明王やたくさんの石仏が置かれていました。
古道「山の辺の道」のほぼ中間あたりに長岳寺があります。
天長元年(824)に淳和天皇の勅願で弘法大師空海が大和神社(おおやまとじんじゃ)の神宮寺として創建したとされて、かつては48の塔頭が立ち並ぶほどの大伽藍であったそうです。
楼門は日本最古のもので国の重要文化財に指定されています。寺伝によると空海が創建した当初のものとされていますが、下層部が室町~安土桃山時代、上層部が平安末期ごろのものです。
藤原時代に作られた阿弥陀三尊の両脇侍は、めずらしい半伽椅座像で鎌倉時代の作風に大きな影響を与えたとされています。玉眼を用いた仏像としては、日本最古の仏像だそうです。
12,000坪もの広大な境内には四季折々の花が咲き、鎌倉時代から江戸時代にかけての石仏が数多く置かれています。雨に濡れた苔と石仏というのはなんとも風情のあるものですね。
本堂よりも奥の丘の上にある2mもの弥勒大石棺佛は、古墳の墓蓋を使って彫られたものなのだそうです。
境内への階段を上ると、塀からこぼれそうなくらいに花が咲く古木のサルスベリが出迎えてくれます。
石光寺の創建は古く、白鳳年間(673年~685年)にこの地で霊光を放つ石が見つかったため、天智天皇の命により石にみろく菩薩を刻み、役小角が開山となって建立されたと伝えられています。
この光る石の伝説は當麻曼陀羅縁起絵巻に描かれているのですが、平成3年の弥勒堂の立て替えの時に、絵巻と同一の石造みろく像が発見され、伝説が実証されたことで話題になりました。
ちなみに當麻曼陀羅縁起絵巻(国宝)は現在、光明寺が所有しており、鎌倉国宝館などで時折公開されています。
実際にこの絵巻を拝見したことがあるのですが、その時はこの石光寺の縁起について描かれているとは知らずに見たためもったいないことをしました。
また機会がありましたら、このことを思い出してじっくり拝見したいと思います。
ご本尊の阿弥陀如来像を、納経するときに間近で拝見することができたのですが、とても深い優しそうなお顔をしておられました。
當麻寺自体は6年前に訪れているのですが、そのときはすでに夕刻だったため奥の西南院へは行けませんでした。
白鳳十二年(672)に萬法蔵院を當麻寺として遷造した際に、當麻寺の裏鬼門の守りとして創建されたのが西南院です。
本尊は弘仁時代に造られた十一面観音菩薩像で、両脇には聖観音菩薩像と千住観音菩薩像が並んでいます。 この他にもたくさんの仏像がまつられているそうです。
境内には牡丹をはじめ様々な花が植わっているのですが、訪れたのが真夏のためそれらの花をみることはできなかったのですが、山の起伏を利用して江戸初期に作られた池泉回遊式庭園を散策し、途中に2カ所ある水琴窟の水音に耳を傾けると、しばし時間と暑さを忘れられました。
庭園をぐるりと回って降りてきたところにある池に、数本だけ睡蓮が咲き残っていました。白というより蜜蝋のような透明感のある花弁で、とても気品が感じられました。
寺伝によると、葛木を訪れた行基の夢に老人が現れ「これより東に行くと山の中に船形の大きな岩があるのでその岩の上に薬師如来をおまつりするように」と告げられました。 東の山で岩を見つけた行基はその地に庵をむすび、薬師瑠璃光如来をまつり船宿寺と名付けたとされています。
本堂の裏手からしゃくなげの森に行かれるのですが、真夏だったためにその森は深い緑一色でした。 でも炎天下の境内で唯一この森だけが涼しくて気持ちのよい空間でした。
金剛寺は吉野川の南岸に位置し、茅葺きの庫裏などが何とも趣のあるたたずまいを見せてくれるお寺です。
山門の正面に大きな白藤の木があり、花の季節には美しいと藤の花が咲くそうです。
牡丹や菖蒲や菊の季節も見事なのだそうですが、真夏のこの時期だけが百日紅も終わってしまい緑一色の境内となっていました。
拝観の申し込みをすると玄関から招かれ、庫裏から本堂、護摩堂、観音堂を中から拝見することができます。
前庭に面した本堂の木戸には、簡単に本堂に入ることが許されなかった時代にお賽銭やお米などを流し入れた仕掛けがありました。
薬師如来と日光月光の両菩の三尊のほか阿弥陀如来、観音菩薩像、十二神将がずらりと立ち並んでいます。 護摩堂には不動明王を中心に大威徳明王、愛染明王などが 並んでおり、仏像や画像などの寺宝が豊富なお寺です。 本堂では金剛寺に関する説明を、15分ほどのテープで聞かせていただけます。
子安地蔵寺は高野山真言宗のお寺で、河内と紀伊の境にある紀見峠の麓の小高い山の上にあります。
天平九年(737年)に行基によって創建されました。本尊の地蔵菩薩像も行基作と伝えられています。
天正九年(1581年)、織田信長により高野山攻めの兵火により地蔵堂が焼け落ちてしまいましたが、地蔵像は何者かにより人里離れた山中に隠され難を逃れました。
その後お寺は紀州藩主徳川頼宣によって復興され、紀州徳川家の安産祈願寺として篤く信仰されました。
藤や萩、山茶花などが見応えあるお寺なのですが、夏には山野草がひっそりと出迎えてくれます。
関西花の寺25カ所巡礼を締めるくくるのが、河内長野の山中にある観心寺です。
観心寺の創建は古く、大宝元年(701年)に役小角が雲心寺を開いたのが始まりで、平安時代に入り弘法大師がこの寺を訪れ、北斗七星を勧請しました。
しばらく後に弘法大師はこの寺を再度訪れると如意輪観音菩薩像を造り、寺号を勧心寺と改めたと伝えられています。
如意輪観音像は本尊としてまつられ、現在では4月17、18日にのみに開扉されます。
境内に北斗七星が祭られる星塚があるのですが、寺院で星を祭るのは他には例が無いそうです。
山門から何段もの階段を上った正面奥に、白壁に朱塗りの柱が美しい国宝の金堂があります。
この金堂は、建武の新政のときに後醍醐天皇が楠木正成を奉行として造立したもので、和様、唐様、天竺様を折衷した特徴のあるお堂です。
境内には樹齢250年以上の古木のある梅林があります。
勧心寺を訪れたときは、傘が役に立たないくらいのものすごい豪雨で、広い境内をゆっくり見ることができずとても残念でした。