大切岸 鎌倉の旧跡めぐり

東西に8.75km、南北に5.2kmの鎌倉には、そこかしこに様々な時代の遺物がぎゅっとつまって存在します。何のプランもなく歩き回っていても、いくつもの旧跡にめぐりあえる鎌倉・・・。歩くたびに新しい発見をすることができるのです。

■ 大町釈迦堂口遺跡            ■ 和賀江嶋
■ 源頼朝の墓                 ■ 上杉憲方の墓
■ 永福寺跡                   ■ 北条氏常盤亭跡
■ 冷泉為助の墓と母阿仏尼の墓
■ 離山の富士見地蔵          

和賀江嶋

和賀江嶋 岸辺の岩盤上に建つ石碑江ノ島と稲村ガ崎と和賀江嶋
和賀江嶋 石柱を確認できる

材木座海岸の東南の端に、現存する日本最古の築港遺跡である和賀江嶋があります。 「わがえのしま」または「わがえじま」と読みます。 飯島岬から海に200mほど延びた石積みの遺跡です。貞永二年(1232)北条泰時が執権のときに、往阿弥陀仏という勧進僧の申し出により築港されました。
石は相模川や酒匂川より運ばれ、わずか1カ月ほどで完成したといわれています。
忍性の開いた極楽寺は幕府より和賀江嶋の管理を任され、出入りする船より升米と呼ばれる関税を徴収し整備をしていたとのことです。
震災や風化により積み石が崩れてしまいましたが、現在でも砂浜には丸石がごろごろと転がっていて、引き潮のときには先のほうまで歩いていくことができるそうです。
次回はぜひ引き潮を見計らって先まで行ってみたいと思います。

2009年7月19日

追記 潮の引いた和賀江嶋

休日の日中で潮がかなり引く日という絶好のチャンスがやってきたので、和賀江嶋に行ってまいりました。丸石や石器のような切り口の石、穴だらけの石などがごろごろとした間を島の先のほうまで歩いて行きました。
以前海岸の大きな岩の上に立っていた史跡碑が無いことに気づき、帰宅してから調べてみると2009年の秋の台風18号の影響による高波で倒れてしまったと知りました。前回の写真が2009年7月撮影ものなので、碑が倒れる前の貴重な写真となりました。
海岸に近い部分は石と石の間に水が結構あったのですが、先へ行くほど石積みが高くなっていて潮がすっかり引いていました。潮が満ちている状態でも見えていた石柱も、今日は台座の部分までしっかりと確認できました。
かつてこの和賀江嶋は日本のみならず中国との交易船でにぎわっていたため、今でも交易の品とみられる青磁の破片などが見つかるそうです。私も石の間を捜してみましたが、それらしいものを見つけることができませんでした。
ここは国の指定史跡に登録されているのですが、潮の引いた和賀江嶋はヤドカリやカニや様々な生きた貝、大量の海藻などが豊富にあって史跡に興味がない人でも磯遊びを楽しむことができるところです。

2011年5月4日
以前史跡碑の立っていた大岩和賀江嶋の全貌莫大な量の石満ち潮でも確認できる石柱はこれでした

北条氏常盤亭跡 タチンダイやぐら

鎌倉駅西口から市役所通りをひたすら行き、3つのトンネルを越えたところに北条氏常盤亭跡があります。115,033.28平方メートルというかなり広大な土地で、昭和 52年に行われた発掘調査では門柱跡や法華堂跡などの建物跡ややぐら群などが発見され、翌年には国の史跡に指定されました。
バス通りと同じ高さに広い草地が広がっているのですが、その草地の脇に細い道があり、一段高い草地へと続いています。一段高くなったところもかなり広さがあり、その一番奥の崖には“タチンダイ”というやぐら群があります。
訪れたのが9月ということもあって伸びに伸びた草に覆われてうもれていたやぐらもありました。きっと見落としたものも多いかと思われますので、次は下草も枯れる冬に訪れてみたいと思います。

2010/9/19
バス通りから見える平場上へと続く細い道一段高い平場タチンダイやぐら

大町釈迦堂口遺跡

かなり広い平場

鎌倉ガイド協会主催の特別公開があり、ガイドの方の案内のもと大町釈迦堂遺跡を訪れました。
長年北条時政邸跡とされてきたこの場所ですが、近年発掘調査が行われた結果、鎌倉時代初期のものは発掘されませんでした。 鎌倉時代中期以降に造成された土地であることや、火葬が行われていたこと、青磁の鉢などの出土品もあり、時政邸跡ではなく大規模な寺院の跡と推測されるそうです。
時政邸とされてきただけに、今のところ寺院名などはいっさい解明されていません。でもそれが返って想像力をかきたて、ワクワクドキドキさせられます。将来的には判明されることでしょう。

かつては時政邸の門と言われていた風格のある切通は、大寺院の門として使われていたと推測されます。風化が進み、いっそう迫力が増しているようにも見えました。
頂上に太鼓橋が架かっているのですが、これは以前この土地を所有していた方が設置されたものだとのことです。
このすぐ横はゆるやかな崖になっていて、往時はこの崖を登ってこの切通門を出入りしていたのでしょうとガイドの方が説明してくれました。
以前、釈迦堂切通の北側洞門手前の上方の鬱蒼とした木々の合間から、太鼓橋のかかったこの切通を見つけたときにはいつかあの場所に行きたいと強く思ったものでした。
1333年5月22日、新田義貞らに攻め入られ東勝寺で自害した北条一門の躯は、釈迦堂口遺跡付近のやぐらに埋葬されたとされています。近年の発掘調査では64基ものやぐらが見つかっています。
この遺跡には有名な“唐糸やぐら”と“日月やぐら”があります。(詳しくはやぐらのページをご覧ください)

※注:普段は立入ることができません。

2010/7/17
釈迦堂切通上にも存在する切通岩肌の風化が激しい

源頼朝の墓

源頼朝の墓

鶴岡八幡宮の東側に国指定史跡となっている白旗神社があります。その横の急な階段上がると頼朝のお墓があります。治承四(1180)から嘉禄元(1225)までの45年間、頼朝のお墓の眼下に広がる一帯に初代の鎌倉幕府である大倉幕府がありました。
もともとここには聖観世音菩薩を本尊として建てられた持仏堂があり、頼朝はそこへ葬られ一周忌には法華堂と称されるようになりました。 かつてお堂は頼朝の墓のある場所に建てられていたのですがその後取り壊され、供養塔が建てられたということです。江戸時代には現在の白旗神社のある位置に法華堂があったとされています。法華堂は鶴岡八幡宮や勝長寿院と並ぶものでしたが、明治の神仏分離によりお堂が壊され、白旗神社が建てられました。お墓は鎌倉石で作られた層塔で、現在のものは安永八年(1779)に薩摩藩主島津重豪が建てたものを平成になって補修しているとのことです。

ここにも血なまぐさい歴史があって、宝治合戦のときに北条時頼に敗れた三浦泰村一族の五百名あまりがここで自害した場所だということです。この近くには、ここで自害した三浦一族の墓といわれるやぐらあります。

こここにはお墓とそれを守るように木々が茂っているだけで、他には何もありません。
白旗神社隣のよりとも児童遊園には大きな銀杏の木があり、紅葉の季節になると公園中が金色に染まってまぶしいくらいです。我が家はここでよくお昼休憩をさせていただいています。

2008年11月1日

永福寺跡

文治五年(1189)の奥州征伐のおり、平泉の中尊寺金色堂や毛越寺の壮麗さに感動した源頼朝は、鎌倉へ戻ってから藤原氏や義経の慰霊のためにこれらの寺院を模してここに永福寺を建立しました。
地名のゆかりとなった二階堂を中心に阿弥陀堂と薬師堂が直線に廊でつながって並び、その廊の両端は直角に池に突き出し、釣殿になっていたようです。池も200mもある壮大な寺院であったことが発掘調査でわかりました。
(下の地図にマウスを重ねると復元予想図が現れます)

永福寺復元予想図

この永福寺の建立工事のときにある事件がありました。
頼朝が現場を視察していると、片目が見えない人夫がおりました。不審に思った頼朝はどの御家人がつかわしたものかといぶかしんで、そのものを捕らえさせたそうです。
上総五郎兵衛と名乗る男は平氏ゆかりのもので、懐に短刀を隠し持ち、目に魚のうろこをいれ、片目が見えないふりをして人夫にまぎれて頼朝を暗殺しようとしていたと白状したのです。

この話は色んな文献で目にするのですが、なぜ頼朝が 「いぶかしんだ」 のかずっと不思議でした。最近読んだ本でやっとその謎が解けました。
この時代、都でこのような工事がある場合、貴族たちは抱えている使用人たちのなかから体に障害がある者を差し出すという慣例があったそうです。ところが鎌倉幕府では、都のそれとは全く正反対のものでした。鎌倉ではそういう者をつかわすなんて御家人として「とんでもないこと」だったというのです。都と鎌倉の慣例の違いを知らず、変装して紛れ込んだつもりが返って目立ってしまったというわけです。
幕府の官寺として長年栄え、宝治合戦の時には三浦光村が内陣を構えるなどしても戦火も逃れてきましたが、応永12年(1405)12月、火災によりこの壮大な寺院は失われてしまいました。その後、再建されることはありませんでした。

2009年11月8日
永福寺跡秋にはススキ野原になります

冷泉為助の墓と母阿仏尼の墓

浄光明寺の裏山の上に、冷泉家の祖となった冷泉為助の墓といわれる石造りの宝篋印塔があります。お墓は石垣で囲まれており、国の指定史跡になっています。
冷泉為助は藤原定家の孫にあたる人で、母は「十六夜日記」の作者である女流歌人の阿仏尼です。阿仏尼の墓は英勝寺前の道を線路沿いに少し行ったところにあるやぐらの中にあります。
為助とその異母兄である藤原為氏との間で所領紛争が起こったため、阿仏尼は還暦に近い高齢であったにもかかわらず幕府に訴えるために京都から遠い鎌倉へとやってきたのです。鎌倉では月影ヶ谷に滞在していましたが、所領紛争の解決をみることなく亡くなってしまいました。
初め日記には題名はついてなく「阿仏日記」などと呼ばれていたそうですが、十月十六日に始まっていることから後世「十六夜日記」とつけられたとのことです。この当時の女流日記とは大きく違い、京都から鎌倉への紀行文と鎌倉での滞在記で構成されています。
十六夜とは十五夜(満月)よりも少し欠けていて、少し遅れて出てくるもので、「いさよふ(猶予ふ)」とは「ためらう」「たゆたう」「進もうとして進まない」などの意味があります。奥ゆかしさの中に母の強さを感じます。

2008年7月19日・2009年3月21日
冷泉為助の墓阿仏尼の墓

上杉憲方の墓

上杉憲方の墓の石碑

極楽寺の線路上にかかる桜橋近くの道端に、「上杉憲方の墓」と書かれた小さな石碑が置かれています。その狭い路地を入ってアパートの裏手に回ったとたん、びっくりするような空間が待っていました。
そこだけ時代に取り残されたかのように、苔むした鎌倉石などの石塔が数基ならんでいました。その中でひときわ高い七層塔が上杉憲方の墓と伝えられているものだそうです。
上杉憲方は山内上杉の出で、鎌倉公方足利氏満を補佐する関東管領を務めました。
極楽寺坂をはさんで反対側の西方寺跡には上杉憲方の逆修塔があるのですが、私有地のため立ち入ることができません。 逆修塔とは生前に建てる墓のことで、憲方の夫人が建てたといわれています。ちなみにそちらは五輪塔だそうです。
明月院のやぐらの中にも、自ら建てたという宝篋印塔が置かれています。

2009年8月29日
七層塔が上杉憲方の墓苔むした石塔

離山の富士見地蔵

小袋谷1丁目の交差点よりやや北にある旧鎌倉中の道沿いには、かつて腰山、長山、地蔵山という樹木の無い3つの山がありました。それぞれが一つずつの独立した山になっているため、「離山」と呼ばれていました。
その形から前方後円墳であったのではないかという指摘もあるのですが、昭和に入り周囲の田んぼを埋めるために山すべて崩され、確認するすべがなくとても残念です。
地蔵山の南の麓にあたるところに、かつて地蔵山の山頂に祀られていたお地蔵様がこちらに移され、ひっそりと祀られています。
最初に移された場所はここよりもやや上のほうであったとのことですが、昭和58年になってお地蔵様のために寄進されたこの土地に祀られたそうです。ここには山があったという痕跡は全くといっていいほど見られませんが、土地の方たちに大切にされているのが伝わってくるお堂です。

2009年8月1日
離山の富士見地蔵風化のはげしいお地蔵さま同敷地内の馬頭観音像と五輪塔