鎌倉の町中や谷戸を歩いていると、今も伝説がそこに溶け込んでいるような心地がしてきます。
鎌倉にひそむふしぎをもっと探ってみたいのです。
■ 建長寺三門 梶原施餓鬼 ■ 貝吹地蔵
■ 隠れ里の稲荷 ■ 海蔵寺の源翁禅師
■ 東勝寺橋 青砥藤綱の話 ■ 散在ガ池 神次の話
■ 十王岩からの眺め(かながわ景勝50選)
■ 白い大蛇となった乙護童子
建長寺の三門にて施餓鬼という法会が行われているときのこと、馬に乗った一人の武者が駆け込んできたのですが、法会が終わってしまったことに大そうがっかりとしたところ、哀れに思った蘭渓道隆がその武者のためにもう一度施餓鬼をとりおこなうと、その武者は自分は梶原景時の霊だと名乗って喜んで帰っていったそうです。
それ以来施餓鬼が終わったあともう一度施餓鬼をとり行うようになったものが毎年7月15日に行われる梶原施餓鬼です。
三門とは三解脱門の略で、現在の三門は安永四年(1775)年に建立されたものです。桁行が三間、梁間が二間、入母屋造で屋根は銅板葺でできています。上部に軒唐破風(のきからはふ)がついており、その下に掲げられている「建長興國禅寺」と記される扁額は後深草天皇の筆だとも伝えられています。
天園ハイキングコースの瑞泉寺裏山あたりにあります。
新田義貞の鎌倉攻めの際、東勝寺で自害した北条高時の首を敵に渡すまいとして、高時の家来が持って逃げました。首を埋める場所に困っていたところこの地蔵が貝を吹いて、夢想疎石の建て*へん界一覧亭から天園に導いてくれ、無事に首を埋めることができたと伝えられています。
昭和54年ごろ発行された本では、このお地蔵様がしっかりした屋根の下におられる姿が写っていました。いつのころか野ざらしになってしまったようです。
(*“へん”の字は行人偏に扁)
伊豆蛭ケ小島にながされていた頼朝が病気になったときのこと、三日続けて白髪の翁が夢に現れ、ある煎じ薬を飲むようにすすめ、治ったら兵をあげよ。わしが必ず守ると言い、「われは隠れ里の稲荷なり」と告げたそうです。
その後挙兵し、鎌倉に落ち着いた頼朝は畠山重忠に命じて隠れ里を探させ、小さな祠を見つけ、そこに社殿を建てたのが佐助稲荷と伝えられています。「佐助」とは、佐殿(頼朝)を助けたということからついた名だそうです。
鳥羽上皇が宮中で宴を開いているときのこと。帝に仕えていた絶世の美女の玉藻前が金色の光を発すると、帝は病に伏せってしまいました。陰陽師によって、玉藻前に化けた九尾の狐が原因だとわかると、九尾の狐は逃げ出しました。鎌倉御家人の三浦義明・上総介広常の軍勢がそれを追い、那須野で射殺すと鳥羽上皇の病は全快しました。
ところが九尾の狐の霊が石と化し、その石にふれると人も獣も皆死んでしまうので、「殺生石」として恐れられていました。
そこで海蔵寺の開山の心昭空外(源翁禅師)が経を読みながら鉄の杖で叩くと、殺生石は砕け散り各地へ飛散し、災いが止んだと言われています。
このときの鉄の杖が金槌のような形をしていたので、源翁禅師の名前をとって金槌を「げんのう」と呼ぶようになったということです。
ある夜、青砥藤綱がこの東勝橋のあたりを通りかかったときに、滑川に十文銭を落としてしまいました。藤綱はおとものものに松明を買ってくるように言いつけ、十文銭を探し出しました。
ところが当時松明は五十文したため、「藤綱は十文銭を探すのに五十文も払うなんて、勘定ができないで損をしている」と人々があざ笑いました。
すると藤綱は「探しださなければこの十文は永久に使われることなく失われてしまう。五十文を使うことによって世の中の益ともなる」と、このようなことを言ったと言い伝えられています。
青砥藤綱は鎌倉時代後期の武将で、北条時頼と時宗につかえ、その生活は質素で倹約家で、生活に困窮している人々への施しをすることを好んだとされていますが、実在しなかったとの説もあるようです。
建長寺の鎮守勝上けん(山かんむりの下に献)から天園ハイキングコースを太平山の方へ少し行くと、風化が激しくわかりにくいのですが十王の一人閻魔大王と地蔵菩薩、観音菩薩が彫られているといわれる十王岩があります。
昔この岩は夜毎不気味な音をたてていて、それが山に響いて麓に聞こえてくるので、人々は地獄谷で処刑された罪人たちの霊が集まって泣いていると言って恐れたそうです。その正体を突き止めてみると建長寺の谷から十王岩に向かって吹きあげる風の音だとわかり、「喚き十王」とよばれるようになったそうです。
建長寺開山である蘭渓道隆は江ノ島に参籠したおり、乙護童子を弁天様より授けられました。
蘭渓道隆が建長寺を開く以前、常楽寺で禅を広めていたときのことです。うわさをきいた江ノ島弁天様は蘭渓道隆のもとへ教えを乞いにやってきました。
すると弁天様は、献身的に蘭渓道隆に仕える乙護童子の姿に感嘆したものの、生来のやきもち焼きのから童子を女人の身体に変えてしまったのです。そのことに気づかない童子はいつものように蘭渓道隆に仕えていましたが、傍目には蘭渓道隆が童子を寵愛しているかのように見え、うわさがひろまりました。
童子は身の潔白を示すため、白い大蛇となり大銀杏の樹に七回り半巻きつき、仏殿横にある色天無熱池の底を尾で叩いたと伝えられています。
乙護童子は侍者として一生禅師に仕えたといわれ、建長寺の開山堂 西来庵には蘭渓道隆像の脇侍として祀られています。
昔、今泉村の長者がいて、なかなか子に恵まれずようやく授かった息子神次は、大きくなるにつれ、しばしば池に遊びに行くようになりました。
この池には化け物ウナギが棲んでおり、村人は一人で遊びに行くのは恐ろしいことだとうわさしました。
ある夜、長者に「神次を池にやってはいけない」と夢のお告げがあったため、神次を部屋に閉じ込めました。すると神次は見るみるうちにやせ細りってしまったのです。衰弱した神次に「もう一度だけ池を見せてくれ」とせがまれた長者はついに池に行くことを許してしまいました。
神次は一目散に池へ行くと、そこへ身を投じたのです。
それきり、神次は浮かんできませんでした。
散在ガ池は湧き水が多く、中心部分は急に深くなっていて水難事故が多かったため、このような話をして子どもたちが池に近づかないようにしていたようです。
散在ガ池へは大船駅から大船駅循環バスに乗り、今泉不動で降りて少し坂を上ると散在ガ池森林公園入口があります。この辺りには鶴岡八幡宮周辺の緑とはまったく違った風景が広がっていました。
公園の中はコンクリートが敷かれているものの、苔むしていてとても滑りやすい道です。しばらく行くと突然目の前に鎌倉湖の水面が広がります。なるほど、その雰囲気は池というより、まさしく小さな湖というものでした。
もとは砂押川の水源のひとつである沢の自然池の水を堰き止めて作った農業用水地で、明治二年ごろに造成されています。
当時の池は小さく、水争いが絶えなかったために昭和になって大船・岩瀬の水利組合が造成しなおしたそうで、江戸時代このあたり一帯の山は、今泉・大船・岩瀬の三つの村の入会林で、村の持ち山がこのあたりに分散して在ったということから「散在ガ池」と名づけられたとのことです。鎌倉湖という名は、昭和に入ってから観光用に付けられた呼び名だそうです。
湖畔のベンチでお昼休憩をとっていたら、管理人さんが通りかかって「ちょっとしたものを差し上げますので、あとで管理事務所に寄ってください」と言っていかれました。そこでしばらくしてから管理事務所に伺うと、草で作ったバッタをいただきました。あまりに見事なので大事に持ち帰り、部屋に飾ってあります。
管理人さんのお話によると、冬にはオシドリ、春にはルリビタキがやってくるそうです。とても緑が豊かな鎌倉湖・・・次回はぜひ紅葉の季節に訪れたいと思っています。