鎌倉の川にかかる橋の中で重要な道にかかっていた橋や伝説のある橋などの十選です。
江戸時代に鎌倉観光がさかんになり、そのときに名数を使って名所や旧跡などを紹介したのが始まりです。
今では暗渠になって川の姿を見ることができず碑だけが残るものなど、橋だけに往時のものは残っていないのがとても残念です。
六浦道の二階堂川と滑川が合わさるあたりにかかります。
建保元年(1213)、北条義時を打倒し頼家の遺児である千寿丸を擁立しようと陰謀を企てたその一味として捕らえられた渋川刑部六郎兼守が、自らが処刑されることを嘆き悲しみ荏柄天神社に十首の和歌を詠み納めました。たまたま荏柄天神社に参拝に来ていた工藤祐高がその歌を幕府に差出すと、その歌を読んだ3代将軍源実朝は感心し罪を許したのです。死罪を免れた渋川刑部六郎兼守は、そのお礼にと荏柄天神社の参道のこの場所に橋を作ったことからこの名がついたとされます。
当時の橋は三間で、現在の橋と同じような大きさであったとのことです。
ちなみにその陰謀には和田義盛の子息の義直と義重、甥の胤長らが関わっていたことから、その後あの和田合戦へと流れていくのでした。
小町大路に面した本覚寺の門前にかかる橋が夷堂橋です。こじんまりとした橋が多い中、川幅の割には立派な橋がかかっています。
昔このあたりに夷堂があったことから、この名がついたとのことです。
滑川はその昔、場所場所で様々な呼び名がつけられており、この夷堂橋のあたりは夷堂川と呼ばれていたそうです。
ちなみに、上流部は「胡桃川」、浄明寺門前では滑川、補陀落寺の開山である文覚上人の屋敷跡あたりでは座禅川、延命寺のあたりはスミウリ川、閻魔堂跡のあたりは閻魔堂川とよばれていたとのことです。
小町大路も見どころがたくさんあるのですが、車の往来が結構あるのに歩道がとても狭いため、歩かれるときにはご注意ください。
明治末ごろまで壽福寺の門前に立派な橋がかかっていたそうです。
すぐ近くにある英勝寺の開山であるお勝の局がこの橋をかけたので勝ノ橋とよばれています。このお勝ノ方というのは、江戸城を開いた
太田道灌の子孫康資の娘で徳川家康の側室となった人物です。
明治以降昭和30年ごろまで門前にかかっていた敷石だけの橋の写真が残されていますが、現在壽福寺前の扇ガ谷川は暗渠となり、壽福寺の門前に石碑と地面に縦に置かれた敷石だけを見ることができます。
御成小学校近くの佐助川にかかる橋で、かつてこのちかくに現在の裁判所にあたる問注所があったから裁許橋となったとのことです。また別名西行橋ともよばれ、僧侶の西行がこの橋の上で源頼朝に名前を聞かれたからだと言われています。
小学校側から見て左の欄干は、右側よりもはるかに幅が狭くなっていました。
「さかさかわばし」とも「さかがわばし」とも呼ばれます。
本覚寺前の小町大路行き、大町四ツ角を渡ってすぐの魚町橋を越えてすぐの路地を左に入ると、川が逆流をしているかのような奇妙な錯覚を起こす場所があります。
名越からの滑川の流れがこのあたりで北へ向かって曲がり、川の流れが逆行して見えるので、この名がついたとされます。
この路地の入口には傾いた川の碑が立っていますが、気をつけていないと見逃してしまうくらい、碑も橋もひっそりとしています。
六浦道に対してくの字にかかっていたため、この名がついたと言われています。幕府の近くにあったことなどから重要な橋であったと思われますが、現在は暗渠となっており宝戒寺近くの道の脇に石碑のみがあります。
極楽寺駅を出て右のほうへ下ってしばらく行くと、道の左側に橋の欄干があり、その横にひっそりと小さい碑があり、さらに右側に史跡碑が建っています。
左側には川の流れを見ることができますが、右側は暗渠となって上に道が作られています。
極楽寺川にかかる橋で、昔このあたりに針金を磨いて針を作る老婆が住んでいたからこの名がついたとか・・・「我入道橋」という別名もあり、その由来はこの近くに我入道という僧が住んでいたからだということです。
下馬四ツ角南側の滑川にかかる橋で、昭和30年ごろまでは朱塗の橋が架かっていたそうですが、その後コンクリートの橋になり平成4年に御影石の橋が再建されました。
琵琶橋の名の由来は、このあたりのことを琵琶小路といったことからついたようです。琵琶橋の若宮大路側は暗渠になっていますが、左側には水の流れを見ることができます。
北鎌倉駅前を大船方面に少し行った鎌倉街道沿いにかかる橋で、昔この橋のそばに十王を祀った十王堂があったことから十王堂橋と呼ばれているそうです。
この場所に十王堂があったということは、ここが国境であったということがわかります。人も魔物も鎌倉へ入ることができぬようにと、十王堂が置かれていました。
その十王堂に祀られていた十王は、現在円覚寺塔頭の桂昌庵に移されています。
十代のころ毎日ここを通っていたのに、この橋が鎌倉十橋の一つだなんて全く知りませんでした。その頃、この橋のすぐ横に古い木造の家が川のほうにかなり傾いて建っていたのを思いだしました。
現在橋の欄干があるのは北鎌倉駅に向かって右側だけです。
材木座の水道道交差点より興福寺に向かって150mほど行ったところに、乱橋の碑が建っています。碑が建つ側の川は暗渠になっているのですが、反対側には細い流れを見ることができます。
新田義貞の鎌倉攻めの際、幕府軍がくずれはじめたのがこの橋の辺りであったことから、乱橋とよばれるようになったとの説があるのですが、碑文によると、吾妻鏡の宝治二年(1248)六月の件に雪で濫橋のあたりが霜のようになったと書かれているようなので、元弘三年(1333)の鎌倉攻めよりも遥か昔からその名はあったようです。
このあたりは砂丘がたあったために、よく川の流れが変わったり氾濫したりしていたのではないでしょうか。