鎌倉三十三観音

杉本寺

観音様は三十三に化身する

 観音様は三十三に化身し人々を救うという信仰から、観音菩薩を祀る三十三の霊場をめぐる札所がつくられたそうです。三十三間堂などもこの三十三の化身に由来するそうです。 西国三十三箇所や坂東三十三箇所、秩父三十四箇所などのように、全国にいくつも三十三箇所をめぐる霊場があります。
 西国三十三箇所や坂東三十三箇所、秩父三十四箇所を合わせて百観音巡礼といいます。発願は西国三十三箇所の青岸渡寺で、満願は秩父三十四箇所の三十四番水潜寺となります。
 「今昔物語」巻第十六の「仕観音人行竜宮得富語第十五」に百観音詣でのことが書かれていて、百観音巡礼の思想が平安時代にはすでにあったようです。
[2007年1月7日発願(ほつがん)]

鎌倉三十三観音マップ

第一番札所 杉本寺 【十一面観世音菩薩 】

  杉本寺は鎌倉最古のお寺で、天平六年(734)光明皇后の発願により、行基が創建したと伝えられます。行基自ら彫ったものと慈覚大師作と恵心僧都作の三体の十一面観音を本尊としていました。文治五年(1189)の火災のおり本堂は焼けてしまいましたが、観音様たちは自ら大杉の根本に避難をし火を逃れたと伝えられ、杉本観音と呼ばれるようになったそうです。建久二年(1191)に源頼朝が本堂を再興し、三尊像を内陣に安置し、それとは別に運慶作の立像の十一面観音を寄進したそうです。このほかにも運慶作の地蔵菩薩が置かれています。
 裏山には南北朝時代に三浦一族が築いた杉本城跡があります。杉本寺では経典と納経帳と納め札と数珠を購入しました。これらをもって二人で三十三ケ所満願を目指します。
2007年1月7日 発願(ほつがん)

ご詠歌「頼みある しるべなりけり 杉本の 誓いは末の 世にもわからじ」

杉本寺 杉本寺本堂

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第二番札所 宝戒寺 【准胝観世音菩薩】

  この土地には代々北条氏の執権が住んだ屋敷がありました。鎌倉攻めの最後の激戦地となり、寺南東側にある腹切りやぐら(東勝寺跡)で北条一族全員が自害したと言われています。その北条一族の怨霊を鎮めるために後醍醐天皇が足利尊氏に命じてこの地に建立させたそうです。
 本堂には本尊である子育経読地蔵大菩薩(国重文・鎌倉二十四地蔵尊一番札所)と准胝観世音菩薩が安置されています。境内には他に聖徳太子を祀る太子堂などがあり、一年を通じてさまざまな花が咲き、特に秋には境内一面に萩の白い花が咲くので「萩寺」とも呼ばれています。本堂も境内ももっとゆっくり拝観したかったのですが、時間があまり取れなかったので鎌倉二十四地蔵尊を巡るおりに、今度はゆっくりと拝観したいと思います。
2007年1月7日

ご詠歌「みほとけに 頼む力の 強ければ 水もほのほも 身にかかるかは 」

宝戒寺 宝戒寺本堂

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第三番札所 安養院 【千手観世音菩薩】

 安養院は北条政子が源頼朝を偲んで建てた長楽寺を前身とし、二度焼け落ちた後、源頼朝とかかわりのあった田代信綱の建てた田代寺の観音堂を移して安養院となったそうです。
  境内には日限地蔵尊(鎌倉二十四地蔵尊第二十四番札所)が祀られおり、そのすぐ隣には樹齢700年の槙の巨木が茂っています。こちらは閉まる直前にすべりこんだので、やはりゆっくり拝観することができませんでした。また改めてまいりたいと思います。
2007年1月7日

ご詠歌「かれきにも 花さくちかい 田代寺 世をのぶつなの あとぞ久しき 」

安養院

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第四番札所 長谷寺 【十一面観世音菩薩】

  長谷寺は鎌倉時代以前の天平八年(736)に創建されたと言われています。本堂に向かう途中に地蔵堂があり、その周りには千体地蔵が置かれて供養されています。これらはご先祖や水子を供養するために納められたお地蔵さまで、あまりの多さに切なくなりました。どうか無事に生まれてくることができますようにと祈らずにはいられませんでした。
 本堂には9.18mの本尊十一面観音菩薩が納められています。この十一面観音は、大和長谷寺の本尊とともに1本の楠から造られ、1体は大和長谷寺の本尊として祀られ、もう1体は衆生済度のがんにより海中に投じられたものが、横須賀に流れ着き鎌倉のこの地に遷されたと伝えられています。阿弥陀堂には源頼朝が四十二歳の厄除けに建立したとされる本尊阿弥陀如来が祀られており、鎌倉六阿弥陀の一つに数えられます。
  境内には他にも大黒天を祀る大黒堂、弁財天と十六童子の磨崖仏が刻まれた弁天窟などがあり、時間をかけてまわられることをお薦めします。(注:境内の見晴台で何か食するときには、鳶に気をつけましょう。私が訪れたときも、目の前でおばさんが鳶に襲われていました。)長谷寺を訪れたのは中学生以来で、長谷観音がこんなに巨大だったということもすっかり忘れていました。
 弁天窟は洞窟の途中から天井がとても低くなっていて、普通の人は腰をかがめないと歩けないくらいなのですが、私は一度もかがむことなく通り抜けられ、にいくんに笑われました。腰をかがめて歩いている人たちは、皆「腰にくる」と言っていましたが、ここでは小ささが役にたちました。宝物館にもたくさんの仏像や考古資料が展示されていて観音三十三応現身などを間近でみることができますので、ぜひこちらもゆっくりご覧ください。
2007年1月13日

ご詠歌「長谷寺へ 詣りて沖を 眺むれば 由井のみぎはに 立つは白波 」

長谷寺 弁天窟

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第五番札所 来迎寺(西御門) 【如意輪観世音菩薩】

  西御門の来迎寺は、八幡宮よりさらに奥まった閑静なところにあり、永仁元年(1293)に一遍上人により開かれたとされています。如意輪観世音菩薩はもともと法華堂の本尊であったと伝えられています。本尊は阿弥陀如来で鎌倉十三仏の第十番札所になっています。地蔵菩薩は南北朝時代の優作です。
 本堂の扉には仏像は美術品ではないので見学はお断りと書かれていますが、参拝は申し込めばさせていただけます。関東大震災で本堂が壊れ、現在の本堂は1994年に建てられたものです。
  来迎寺の如意輪観世音菩薩はほぼ等身大で、宋朝様式がみられます。衣文には粘土と漆を混ぜて型抜きしたものを貼り付けた大小の土文が見られます。現在の鎌倉では土文を残す仏像は九体のみという貴重なものだそうです。北条政子の持仏であったされているほかに、由比長者の伝説もありますが、様式上から南北朝時代の作と見られています。婦人の守本尊(特に安産)として信仰されています。
 次回は鎌倉十三仏の方で参拝したいので、そのときにはちゃんと納経して拝観させていただこうと思っています。来迎寺に向かう途中に発掘調査をしている場所がありました。てくてく歩いていると、こういうものに出会えるのがいいですね。
2007年1月14日

ご詠歌「のちのよを かけては頼む 観世音 救ひたまへる あみはもらさし」

来迎寺本堂

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第六番札所 瑞泉寺 【千手観世音菩薩】

 瑞泉寺は嘉暦二年(1327)に二階堂道蘊によって建立されました。昭和四十五年に発掘され復元された夢窓疎石作池泉式の庭園や様々な歌人の歌碑などがあります。
  瑞泉寺に入ってすぐの庭園の梅が、一足早く咲いていました。本堂手前には古木で市指定天然記念物の「黄梅」があります。咲いているところがぜひ見てみたいです。
 本堂に向かって左奥には鎌倉二十四地蔵のひとつでもある”どこもく地蔵”が祀られているお堂があります。このどこもく地蔵には、高三のときからの縁があったのですが、やっとお目にかかることができました。
2007年1月21日
ご詠歌「はるは花 あきはもみちを あやにせし 錦の山に のぼるうれしさ 」

瑞泉寺 夢窓疎石作 池泉式の庭園

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第七番札所 光触寺 【聖観世音菩薩】

  光触寺は一遍知真により開かれました。本尊は阿弥陀三尊像(重要文化財)です。こちらには鎌倉二十四地蔵でもある塩嘗地蔵が祭られていお堂もあります。本堂内での参拝には、予約が必要だそうです。ご朱印は本堂柱にあるインターホンでお願いします。私たちが訪れたときには、ご住職がご病気でしたのであらかじめ書かれていたご朱印をいただきました。一日も早くお元気になられますように。 2007年1月21日

ご詠歌「やみの世を てらす仏の みひかりに ふるる人こそ 実にうれしき」

光触寺本堂 一遍上人像

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第八番札所 明王院 【十一面観世音菩薩】

 鎌倉十三仏のお参りで2週間前に訪れていますが、今回は鎌倉三十三観音のお参りで再度訪れました。今回少しお話をうかがうことができ、山門の正面のお堂に観音様が祀られていますいて、五大明王はその向かって左隣にあるお堂の方に祀られていることがわかりました。 今月の28日は大祭なので、ぜひご参拝くださいとのことです。
2007年1月21日

ご詠歌「ももあまり 八つとかふそる わつらひを いとたちにする ちえのいさほし」

明王院

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第九番札所 浄妙寺 【聖観世音菩薩】

 浄妙寺は鎌倉五山の第五位で、稲荷山浄妙寺といいます。文治四年(1188)足利善兼が創建し退耕行勇により開かれました。当初は東の極楽寺といわれていましたが、後に浄妙寺と改めたと伝えられています。五山が定められたころは、七堂伽藍と塔頭二十三院を数えましたが、火災などで衰退し、現在は総門、本殿、客殿、庫裡殿だけになっています。
  本殿の正面よりお参りはできますが、仏様はかなり離れたところに安置されているため、どんなに腰をかがめてもお顔を拝見することはできませんでした。 浄妙寺も2週間前に鎌倉十三仏のお参りで訪れているので、今回は二度目となりました。ちなみにこの地域の地名は浄明寺となっています。
2007年1月21日

ご詠歌「はるはると まいりておかむ 観世音 仏のおしへ 弥陀の浄土へ」

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第十番札所 報国寺【聖観世音菩薩】

  報国寺は足利尊氏の祖父である足利家時が開基、天岸慧広の開山で建武元年(1334)に創建されました。開基については上杉重兼という説もあります。本尊は釈迦如来坐像で、境内には古くから孟宗竹林があり、「竹の寺」として有名です。 永享の乱(1438年)で敗れた鎌倉公方足利持氏の子義久がこの寺にて自害しています。
2007年10月13日

ご詠歌「よきにつけ あしきにつけて み仏を 頼むわが身は いさくにのため」

報国寺本堂 孟宗竹林

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第十一番札所 延命寺【聖観世音菩薩】

 五代執権北条時頼の夫人が専蓮社昌誉能公(せんれんじゃしょうよのうこう)を開山として建てたと伝えられています。
本尊の阿弥陀如来は円応寺の閻魔大王坐像の余った木材で作られたとされることから「木あまりの像」や予定より早く出来上がったとこから「日あまりの像」と呼ばれているとのことです。 阿弥陀如来の右に聖観世音菩薩がまつられています。 運慶作といわれる地蔵菩薩は別名「身代わり地蔵」と呼ばれています。どうして身代わりかというと、時頼は双六好きで、負けたら裸になるという賭けをして夫人と双六遊びに興じていました。賭けに負けた夫人が心の中でお地蔵さまに助けを求めると、双六盤の上に裸のお地蔵さまが現れ夫人の身代わりになってくれたそうです。夫人は地蔵菩薩像を作らせて篤く信仰したと伝えられています。 地蔵菩薩像は裸像で、現在は法衣をまとっているそうです。
  本堂内は前もって予約をすれば拝観することが可能です。(今回は予約をしなかったので、次回二十四地蔵めぐりのときにはぜひ拝観させていただきたいと思っています)
2007年12月2日

ご詠歌「うまれきて としのなきこそ ものうけれ たのむほとけの 慈悲にのひゆく」

延命寺本堂

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第十二番札所 教恩寺【聖観世音菩薩】

 教恩寺は大町のひっそりとした住宅街にあります。 藤沢山清浄光寺(遊行寺)の末で、かつて教恩寺は材木座の光明寺境内にありましたが、この地にあった光明寺の末寺善昌寺が廃寺となったため、延宝六年(1678)に貴誉上人によって移築されたそうです。 もともとの教恩寺は北条氏康が建立したとされています。 十六羅漢が彫られている山門と桜の枝のアーチをくぐると本堂があります。 境内には古木や古い五輪塔などがあり、とても静かな空間が広がっています。
  運慶作とされる本尊の阿弥陀如来像は、源平合戦で破れた平清盛の子重衡が鎌倉に連れて来られたときに、源頼朝が平家一族の冥福を祈るようにと与え、重衡が篤く信仰したといわれています。 本堂中央に阿弥陀三尊像、右に聖観音菩薩像、左に地蔵菩薩がまつられています。 突然の訪問にもかかわらず、ゆっくりと本堂内でお参りさせていただくことができました。
2007年12月2日

ご詠歌「うへもなき ほとけののりに あそ身こそ 世々にたふとき むぐみなりけり」

教恩寺本堂 十六羅漢の山門 

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第十三番札所 別願寺【魚らん観世音菩薩】

  藤沢山清浄光寺(遊行寺)の末で、弘安五年(1282)に覚阿公忍が一遍に帰依し、真言宗から時宗に改宗し、能成寺の寺号を別願寺としました。 室町時代には足利一族が信仰し、鎌倉公方代々の菩提寺として栄えました。のちに徳川家康も寺領を寄進しましたが、江戸時代以降衰退していきました。 境内には第四代鎌倉公方足利持氏の供養等といわれる石造りの宝塔があります。
2007年12月2日

ご詠歌「とかおもく まよひのつもる つゆの身も たのむほとけの ひかりにそゆき」

別願寺お堂

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第十四番札所 来迎寺【聖観世音菩薩】

 藤沢山清浄光寺(遊行寺)の末で、この地にはもともと衣笠城主三浦大介義明(みうらおおすけよしあき)の菩提を弔うために音阿を開山として源頼朝が建てた真言宗能蔵寺がありましたが、音阿が時宗に帰依したために寺号を来迎寺としました。
頼朝の挙兵に応じた義明は、畠山重忠に攻められ八十九歳で三浦城で戦死をとげましたが、境内には頼朝は義明が十七回忌まで生きたものとみなすようにしたため、「百六つ義明公」ともよばれました。
  本堂すぐ横には義明の五輪塔があり、裏手には百基あまりの三浦一族の墓である五輪塔が並んでいます。 本尊の阿弥陀三尊像は運慶作とされています。観音様は子育て観音とよばれ庶民に親しまれています。
2007年12月2日

ご詠歌「たちいにの 念仏の声を たつねつつ むかふる慈悲の 深きみほとけ」

来迎寺本堂

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第十五番札所 向福寺【聖観世音菩薩】

  藤沢山清浄光寺(遊行寺)の末で、開山の一向は各地を遊行して踊念仏による教えを広めたといわれています。 本尊は阿弥陀三尊像で脇侍に聖観世音菩薩と勢至菩薩がまつられています。
 本堂は閉められていましたが、お参り後に御朱印をお願いするために声をおかけしたら正面を開けていただけました。 ひっそりこじんまりしたお寺です。
2007年12月2日

ご詠歌「ふかき夜の ゆめにすくせし わが身にや さいはひにむく しるへなるらん」

向福寺本堂

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第十六番札所 九品寺【聖観世音菩薩】

 正慶二年、新田義貞は朝廷の勅により鎌倉に下り、この地を内裏として陣を設け鎌倉攻めを行いました。その後双方の戦死者を弔うために健武三年(1336年)に九品寺を創建しました。 新田義貞の自筆とされる山号「内裏山」と寺号「九品寺」を模した扁額が、山門と本堂に掲げられています。 正慶二年、新田義貞は朝廷の勅により鎌倉に下り、この地を内裏として陣を設け鎌倉攻めを行いました。その後双方の戦死者を弔うために健武三年(1336年)に九品寺を創建しました。 新田義貞の自筆とされる山号「内裏山」と寺号「九品寺」を模した扁額が、山門と本堂に掲げられています。
2007年12月24日

ご詠歌「なにはえの よきもあしきも おしなべて いまはの人の すくうのりかな」

九品寺本堂 山門

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第十七番札所 補陀落寺【十一面観世音菩薩】

 住宅街の一角にひっそりと山門があらわれます。補陀落寺はたびたび竜巻や火災にあったため別名「竜巻寺」といわれています。このため寺暦は詳しくわからないそうです。 養和元年(1181年)に文覚上人を開山とし、源頼朝が打倒平家の祈願所として創建しました。 文覚上人は元武士でしたが、渡辺渡の妻である袈裟御前を誤って殺してしまい、その罪を償うために出家したと言われています。後に後白河法皇に荘園の寄進を迫ったことを咎められ、伊豆に流されたときに源頼朝と出会い親交が始まったといわれています。 本尊の十一面観世音菩薩のほかにも行基作の薬師如来坐像、運慶作の日光・月光の両菩薩、弘法大師作の地蔵菩薩、平安時代に作られた木造の不動明王坐像など、仏像が多くまつられています。
  特にめずらしいものとして、平家滅亡の折に平宗盛が最後まで持っていたとされる800年以上昔の平家の赤旗が保存されています。(赤旗の一般公開は4月の鎌倉祭りのときのみ) 寺号の補陀落は、サンスクリット語の観音菩薩が住む山の名前をあらわす「ポータラカ」に漢字を当てたもので、観音菩薩が住む山の名前だそうです。
2007年12月24日

ご詠歌「みほとけの ちかいもふかき 海原の ひろき世にしく 慈悲のおしへは」

補陀落寺境内

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第十八番札所 光明寺【如意輪観世音菩薩】

  補陀落寺からさらに海のほうへ向かうと、大きく開けた空間に見上げるほどの山門が現れました。見聞きして予想していた大きさとは桁違いの大きな立派な山門でした。山門をくぐると広い境内がひろがります。とても寒かったためか人少なでとても静かでしたが、威厳を感じずにはいられませんでした。
 光明寺は、寛元元年(1243年)に然阿良忠を開山として四代執権北条経時が創建した浄土宗の大本山です。 浄土宗の第三祖である然阿良忠が鎌倉に住んだことで、浄土宗が関東以北へ広がったといわれています。 歴代執権の帰依を受けて、大寺院に発展し念仏道場の中心となっていきました。江戸時代には関東十八壇林の筆頭寺院となり、修行の中心寺院としても栄えました。
  山門の「天照山」の扁額は後花園天皇の直筆と伝えられており、後土御門天皇からは関東総本山の称号を受け勅願寺とされました。 明応四年(1495年)に御土御門天皇の勅許をうけてお十夜法要が行われ、光明寺が十夜法要発祥の地となりました。 本尊の木造の阿弥陀如来像と脇侍の木造の観音菩薩像と勢至菩薩像は鎌倉時代前期のものとされています。 本堂に向かって右には三尊五祖の石庭があり、阿弥陀如来と両脇侍の観音菩薩と勢至菩薩の三尊、浄土教を説法流布された釈尊、善導、法然・鎮西・記主の浄土宗五大祖師が石で表現されています。 反対側には記主庭園があり、季節がら池は静かに水をたたえていましたが、夏には紅蓮が咲き誇るそうです。 本堂は拝観自由で、鎌倉三十三観音の如意輪観世音菩薩は本堂の左側にまつられていて、まじかに拝見することができます。
2007年12月24日

ご詠歌「いつる日も 入る日もともに 南無阿弥陀 ほとけのひかり うけぬ日ぞなき」

光明寺本堂 山門 記主庭園 三尊五祖の石庭

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第十九番札所 蓮乗院【十一面観世音菩薩】

  蓮乗院は光明寺山門の右にひっそりとあります。こじんまりとした山門を入るとすぐ本堂があり、ガラス戸越しにお参りをします。 当初は蓮乗寺という真言宗のお寺でしたが、佐助にあった蓮華寺がこの地に移り光明寺となったときに、蓮乗院と改称したとのことです。 光明寺が落成されるまでのあいだ、開山である然阿良忠上人が蓮乗院に居住した由緒があり、現在にいたるまで新住職が光明寺に入山する前に蓮乗院に入ってから改めて光明寺に入るという慣例が残されているそうです。
 本尊は阿弥陀如来立像で、源頼朝の御家人だった千葉介平常胤の守り本尊だったと伝えられています。
2007年12月24日

ご詠歌「にごる世に まようわが身のこのままに はすにうてなに のるぞうれしき」

蓮乗院本堂

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第二十番札所 千手院【千手観世音菩薩】

  光明寺の山門をはさんで蓮乗院の反対側に千手院があります。震災により文献などが失われてしまったため、開山や創建については不明です。 以前は専修院と称していましたが、千手観音が人々に知られるようになり、千手院に改称しました。 江戸時代中ごろからは、寺子屋として近所の子どもたちに読み書きそろばんを教えていたそうで、こじんまりとした境内には松尾芭蕉の句が刻まれた寺子屋の記念碑があります。
 近くの海岸には現存する最古の築港遺跡「和賀江嶋」があり、海岸からは稲村ガ崎が一望できます。
2007年12月24日

ご詠歌「かづかづの のぞみもとむる もろひとの ねがひをはたす ちかいをぞきく」

千手院境内

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第二十一番札所 成就院【聖観世音菩薩】

  極楽寺駅の改札を出て左の方へ坂を上って行くと、鎌倉七口のひとつ「極楽寺切通し」があります。その切通しにさしかかった辺りの階段をのぼると、成就院の山門があります。
 階段の上からは、紫陽花の緑の葉の生い茂る階段の向こうに由比ケ浜の海が一望できます。この階段の両脇には般若心経の文字数と同数の262株の紫陽花が植えられているそうです。由比ガ浜を望む東側の階段入口付近に、早咲きの白い紫陽花が咲いていました。   この地は弘法大師が虚空蔵菩薩をまつる修行を百日にわたって行った所と伝えられており、そこに三代執権北条泰時が京都から高僧を招いて1219年(承久元年)に創建したとされています。新田義貞の鎌倉攻めで寺は焼失しましたが、江戸時代に再建されました。
 境内には聖徳太子をまつる八角堂や、本尊ご分身の不動明王が矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)を従えて立っておられます。
2008年5月17日

ご詠歌「なにごとも こころのままに 成就院 ほとけのちかひ たのもしきかな」

成就院本堂 262株の紫陽花

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第二十二番札所 極楽寺【如意輪観世音菩薩】

  極楽寺は鎌倉で唯一の真言律宗のお寺で、1259年に忍性を開山とし二代執権北条義時の子、重時により創建されました。ところが重時は完成前に亡くなったため、子の長時と兼時が意志をついで完成させました。
 最盛期には七堂伽藍を備えるほどの大寺院で、広大な境内に施楽院、悲田院、療病舎などを建て、病んだ人々を受け入れ、貧しいものには無償で治療を行っていたそうです。 忍性は慈善事業だけでなく土木事業にも意欲的で、各地に橋を189ヶ所、道を71ヶ所も作ったとのことです。頭を低くして山門の木戸をくぐりぬけると、参道の両脇には新緑の葉を湛えた桜の並木が迎えてくれます。 正面奥に本堂があり、その少し手前の右側に観音堂があります。 観音堂と本堂の間には、1本の木に一重と八重を咲き分けるという桜があります。花の時期にぜひ見てみたいものです。 ちなみに境内は撮影禁止です。
2008年5月17日

ご詠歌「みのりとく わしのみやまを まのあたり 弥陀のみくにに 入るここちして」

極楽寺山門 参道

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第二十三番札所 高徳院【聖観世音菩薩】

  美男におわす大仏様におまいりをし、三辺を囲む回廊の裏へ回るとそこに観月堂があります。 観月堂の周りでは休憩している家族連れやカップルなどがたくさんいるのですが、私たちがお参りをするまで観音堂に目を向ける人は一人もいませんでした。それくらいお堂はひっそりとしていて、大仏様のおられる所と回廊一つはさんだだけなのにまるで世界が違うかのようでした。
 この聖観世音菩薩像は江戸幕府2代将軍徳川秀忠の持仏であったとされています。 戸のすぐ向こうに観音様が祭られていて、間近でお顔を拝見することができます。 お堂のすぐ横には、与謝野晶子が大仏様のことを詠んだ有名な歌碑建てられています。大仏様のなかではこの鎌倉の大仏様が一番好きな私は、とても共感できる歌であります。
2008年6月28日

ご詠歌「かぎりなき いきといしいける ものをみな もらさでめぐむ 慈悲のちぶさに」 2008年6月28日

観月堂

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第二十四番札所 壽福寺【十一面観世音菩薩】

  この地はかつて源頼朝の父義朝の屋敷があったとされます。頼朝はこのゆかりの地に幕府を建てようとしましたが、義朝の御堂があり、土地として狭小であったことから断念したそうです。
 開山の栄西は日本に始めて臨済禅を伝えた僧で、宋から茶の種を持ち帰り、効用を記した『喫茶養生記』(国重文)を実朝に献上したことでも知られています。これを機に喫茶の儀礼が広まっていきました。
 総門から中門までのみ拝観可能ですが、そこだけでも十分に鎌倉五山大三位の空気を感じることができます。
2008年7月19日

ご詠歌「きよみづを てつ井にうつす 観世音 すゑの世までも ひかりかがやく」

壽福寺本堂

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第二十五番札所 浄光明寺【千手観世音菩薩】

 建長三年(1251)に真阿(真聖国師)を開山とし、六代執権北条長時が創建しました。足利尊氏と弟の直義の帰依も厚かったとのことです。
  境内には鶴岡八幡宮の代々の宮司の墓や水戸藩にゆかりのある人物の墓といわれるものがあります。裏手の崖を登っていくと、草木が勢いよく生えた広場の奥のやぐらの中に鎌倉二十四地蔵のひとつである網引地蔵が祀られています。 さらにそこから階段を登ったところには『十六夜日記』の作者である阿仏尼の息子冷泉為相の墓と伝えられる宝篋印塔があります。 ここのご本尊は阿弥陀三尊で、脇侍の勢至菩薩像は鎌倉十三仏のひとつです。
  木、土、日祭日の晴れの日のみの拝観となっていますが、お寺の方がとても丁寧に説明をしてくださいますので、ぜひ一度は訪れてみてほしいお寺のひとつです。
2008年7月19日

ご詠歌「ありがたや いづみがやつの きよみづに こころのあかを あらうもろ人」

観音堂

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第二十六番札所 海蔵寺【十一面観世音菩薩】

 海蔵寺は扇ガ谷の谷戸の奥にあり、お寺へ向かう途中にはところどころにやぐらを見ることができます。
  応永元年(1394)に鎌倉公方足利氏満の命で、「殺生石伝説」の心昭空外(源翁禅師)を開山に上杉氏定が創建しました。 季節の花が咲き乱れ、本堂につながる茅葺の庫裡の美しさがより引き立って見えます。 境内には複数のやぐらがあり、薬師堂の横を入っていくと16の穴が掘られて清水が沸いている十六ノ井があり、十一面観世音菩薩もこの井戸から現れたとされています。(十六ノ井の拝観には拝観料がかかりますのでご注意ください)
 本堂裏手の庭園は非公開ですが、やぐらの前から庭園の一部を垣間見ることができます。海蔵寺には何度も足を運んでいるのですが、この日の陽のあたり具合のせいなのか、庭園がより美しく見えました。
2008年7月19日

ご詠歌「ふだらくの ちかひもひろき うめがやつ いろかもおなじ のりのすがたぞ」

海蔵寺本堂 庫裡

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第二十七番札所 妙高院【聖観世音菩薩】

  総門を入ってすぐ右手に妙高院があります。ここは一般公開されていませんが、お参りをしてご朱印をいただくことができます。ただし檀家さんの法事がある場合は遠慮しなくてはならないので、ご注意ください。妙高院の木戸をくぐると、塀に囲まれた空間に蝉の声と池の水音だけが響き、そこから見える小さな青い空にぽっかりと入道雲が浮かんでいるのが見えるだけで、外の世界とすごく遠いところへきたような心地がしました。
2008年8月16日

ご詠歌「そめいろの かづかづうつる 世の中を ひとすじにとく みほとけののり」

妙高院本堂

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第二十八番札所 建長寺 【千手観世音菩薩】

 千手観音菩薩は、鎌倉に唯一現存する法堂(はっとう)に祀られています。幸いなことに訪れたときは特別公開中だったので、法堂の中に入って間近でお参りすることができました。この法堂とは禅宗以外の寺院でいうところの講堂にあたります。文化11年(1814年)の建立で、国の重要文化財に指定されています。千手観音菩薩像の手前には、釈迦荒行の像が置かれています
建長寺の中はいい風が吹いていて、強い日差しをさえぎってくれる三門や法堂の影などはとても涼しく、風をあびながら、半増坊のカラス天狗が天狗の団扇で扇いでくれているのを想像して、ちょっと愉快な気分になりました。三門では毎週土曜11時と13時に、10分ほどの講話を聴くことができます。
2008年8月16日

ご詠歌「世の中の やみじをてらす みほとけの きよきひかりの かぎりなければ」

建長寺三門 法堂 千手観世音菩薩

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第二十九番札所 龍峰院 【聖観世音菩薩】

  龍峰院は建長寺の総院の左手の階段の上の少し奥まったところにあります。ここも本来檀家さんのためのところなので、一般公開はされていません。お参りとご朱印をいただくことはできますが、法事などがある場合は遠慮しなくてはなりません。奥まったところにあるのと、一般公開されていないおかげか、一瞬建長寺の中にいることを忘れてしまいそうでした。
2008年8月16日

ご詠歌「たづねやま わけ入りのりを きくときは とそつのにはも とほからぬなり」

龍峰院山門

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第三十番札所 明月院 【如意輪観世音菩薩】

  建長寺に4時間近くをついやしてしまったため、明月院に着いたのは閉館時間の15分前になってしまいました。ゆったり拝観することはできませんでしたが、納経してご朱印をいただき、お経をあげてまいりました。納経をしたときに、めずらしくお寺の方がその場で開いてご覧になったそうです。私の手のものを「お習字をしていたような字を書かれていますね」と言ってくださったそうですが、写経をしているときの精神状態で、いい字を書けるときもあれば心と同じように乱雑な字になるときもあるので、こちらに納めたお経はどういうときのものだっただろうかと思い、ちょっと恥ずかしくなりました。以前明月院にきたときは姫アジサイが真っ盛りの頃だったので、緑一色の境内はかなり印象の違うものでした。時間がなくてゆっくり拝観することができず残念でした。
 本堂に向かって左側、一段高くなったとことの崖に明月院のやぐらがあります。このやぐらは市内に現存する中で最大級のもので、永歴元年(1260)に平治の乱で戦死した山之内利通の供養のために、子である山之内経俊が造ったとされています。その後200年以上たったころに、鎌倉公方の上杉憲方が、このやぐらに自らのための宝篋印塔を建てたと伝えられています。この上杉憲方の十代ほどあとの上杉憲政が越後の長尾景虎に上杉の家名を譲ったため、景虎は上杉謙信となりました。
2008年8月16日

ご詠歌「くまもなき そらにぞすめる 月かけを おのがこころに うつし見るかな」

明月院方丈 明月院やぐら

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第三十一番札所 浄智寺 【聖観世音菩薩】

 このところの雨続きの影響で、門前に流れ込む水も境内の井戸も水量が豊富で、8月に訪れたときには流れが余り無く藻でいっぱいだった池の水も、だいぶ透明感が戻っていました。
  境内に入ってすぐに樹齢700年というわれるビャクシンの巨木があり、その前に本堂である曇華殿があります。この裏側の一角が観音堂になっています。格子戸越しですが、すぐ近くでお参りすることができます。この観音像は関東大震災で破損してしましたが、昭和初期に修復されたとのことです。
 観音堂のすぐ横に、見上げても視界からはみ出てしまうほど立派なコウヤマキ(市指定の文化財)があります。しおりにはこのコウヤマキは鎌倉で第一の巨木であると書かれています。 順路に沿っていくと、やぐらの中に石造りの布袋様が祭られています。何とも愛嬌のあるお腹は訪れる人たちになでられ、そこだけがすべすべとして光沢がでています。 (寺院の説明については「鎌倉十三仏 第六番札所 浄智寺」をご覧ください。)
2008年9月23日

ご詠歌「けふよりぞ こがねのやまに 入りにけり きよきさとりの ちえをとりつつ」

鎌倉石の階段と山門 曇華殿の裏側

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第三十二番札所 東慶寺 【聖観世音菩薩】

 弘安八年(1285)に、北条時宗の夫人覚山尼によって開かれました。女人を救済する駆込寺(縁切寺)として有名でしたが、明治に入り、縁切寺法は廃止されました。開山以降、後醍醐天皇の皇女や豊臣秀頼の息女など、格式の高いお姫様たちが代々住職となり、大変な影響力を持っていたとされています。
  聖観世音菩薩立像は、もとは鎌倉尼五山第一位であった太平寺の本尊でした。ところが弘治二年(1556)に鎌倉を襲撃した里見義弘が、恋焦がれていた太平寺の住職青岳尼とともに安房へ連れ去られました・。その後太平寺は廃寺となりましたが、東慶寺の要山法関尼の交渉により、聖観世音菩薩立像は鎌倉へ戻されることになりました。このことを喜んだ北条氏綱が、聖観音菩薩立像を東慶寺に寄進したとされています。余談ですが、青岳尼と里見義弘はもともと幼馴染で、同意のもとで安房へ渡り、その後還俗して義弘の妻になったという話です。 現在、聖観世音菩薩立像は松ヶ岡宝蔵内に祀られています。
2008年9月23日

ご詠歌「あじきなやあみにかからんわれひとを たすけたまえといのる身なれば」

東慶寺お堂 ひっそりと

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第三十三番 仏日庵 【十一面観世音菩薩】

 円覚寺山内佛日庵は、円覚寺の開基8代執権北条時宗の廟所です。十一面観音菩薩は時宗、貞時、高時の木造の像と並んで祀られています。この十一面観音像は、元寇に対する心構えを得るための修行のときに、信仰していたものだといわれています。現在の開基廟は文化八年(1811)に改築されたものだそうで、そのときに時宗、貞時、高時の尊像も修復されたとのことです。
  「新編相模国風土記」によると、開基廟のお堂の下にはこの北条家の三人の遺骨を納めた石櫃があると書かれているそうです。仏日庵の拝観には100円、もしくは拝観料込みの抹茶代500円がかかります。(円覚寺の入観料とは別です)
2008年9月23日

ご詠歌「ただたのめ 大慈のちかひ あまねくば けふもきえなん のちのよのみち」

仏日庵山門 開基廟

  この仏日庵をもって、鎌倉三十三観音巡礼は結願となりました。長かった鎌倉三十三観音巡礼も、とうとうこまで辿り着くことができました。やっと終わったという気持ちと三十三観音をめぐりが終ってしまったさびしさとで、複雑な心境です。
 2007年1月7日に「子どもが無事に生まれてくることができますように」との願いから発願したこの巡礼ですが、第九番札所の浄妙寺までお参りをしたところで切迫流産により入院することになり、やむを得ず巡礼は中断となりました。 2007年10月から再開いたしましたが、乳飲み子を連れての巡礼のため思うようには進めず、第十番札所の報国寺から第三十三番の仏日庵までほぼ1年近くかかってしまいました。
  1歳4ヶ月になった息子は、いつしか自ら進んで手を合わせ、頭を下げるようになりました。この子が成長して巡礼の意味がわかるようになったら、納経をして、いただいたご朱印帳を見せてあげたいと思います。
2008年8月16日 結願

結願

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