鎌倉の古寺社

壽福寺参道

古刹をめぐる

鎌倉のお寺やお社をめぐるとき、その歴史をそこここ感じることができます。鎌倉のお寺は空いている夏がおすすめです。

金龍山 宝戒寺(金龍山 釈満院 円頓宝戒寺)
荏柄天神社
円覚寺 舎利殿
御霊神社
高徳院
丸山稲荷社
元八幡
安養院
常楽寺
称名寺

金龍山 宝戒寺(金龍山 釈満院 円頓宝戒寺)

横大路と小町大路がつながるところに萩の寺と呼ばれる宝戒寺があります。
天台宗のお寺で、本尊は三条法印憲円作の“子育経読地蔵大菩薩”と呼ばれる木造地蔵菩薩像で、鎌倉二十四地蔵の第一番札所になっています。本堂内には毘沙門天や准胝観世音菩薩、閻魔大王像など数多くの仏像が祀られていて壮観です。境内には聖徳太子を祀った太子堂、秘仏である歓喜天を祀ったお堂、そして得宗を祀った徳宗大権現があります。同じ天台宗の杉本寺とこの宝戒寺は、代々同時にご住職を兼任されるのだそうです。
かつてこの地には北条義時をはじめとする代々の得宗の舘がありました。
北条泰時が父義時の法名「得宗(徳宗)」を、義時から始まる嫡流が継いだ家督の呼び名とし、義時、泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、髙時と初代執権の時政を加えて九代に及びました。
元弘三年(1333)、新田義貞勢による鎌倉攻めにより、北条髙時一族と家臣は舘を出て菩提寺である葛西ケ谷の東勝寺へ入り、北条一門と譜代の被官など総勢870余名が次々と自害して果て、ついに鎌倉幕府は滅びました。

建武二年(1335)北条一門の怨みを恐れた後醍醐天皇が、新田義貞に命じ、円観慧鎮慈威を開山として得宗舘跡に建てたのがこの宝戒寺です。円頓大戒(金剛宝戒)と天台宗の密教道場として戒壇院が置かれ、国宝的人材の育成と修行が行われました。どれだけ北条一門の怨霊を恐れ、そして気を使ったかというのが、与えられた称号にも現れているそうです。円頓というのは「完全なる教えと修行」という意味を持ち、後醍醐天皇は宝戒寺に最も重要な地位を与えたとのことです。そして怨霊鎮めに有効な像を祀っていることにもそれは現れています。
平成十六年(2004)には、境内の南東奥から邸跡や幅4mと推測される溝などが発掘されています。 このように北条一族の怨霊鎮めのために建立された宝戒寺ですが、そんなおどろおどろしい雰囲気はみじんもなく、訪れるたびに癒されるお寺です。
宝戒寺では毎年鎌倉が滅ぼされた5月22日に、得宗一族供養のための徳宗権現会が行われます。

宝戒寺本堂

2011年1月15日

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荏柄天神社

源頼朝の墓から西に谷戸をひとつはさんだところに、荏柄天神社があります。祭神はもちろん天神様で学問の神様とよばれる菅原道真公です。
天平七年(735)に書かれた“相模国封戸祖交易張(さがみのくにふこそこうえきちょう)”に鎌倉郷、荏草郷(えがやごう)、尺度郷(さかどごう)などと記されているのですが、このうちの荏草が後に荏柄となったものと思われます。
この社の“相州國鎌倉荏柄山天満宮略縁起”によれば、菅原の道真が亡くなってから200年が経った長治元年(1104)8月25日のこと。にわかにかき曇った空から黒袍の天神画像が降ってきたので人々は恐れ、その地に社殿を建てて天神画像を祀ったと伝えられています。
頼朝は治承四年(1180)に挙兵して鎌倉へ入ると、改めて荏柄天神社の社殿を建立し、鎌倉幕府の鬼門の守護神として崇敬しました。

鎌倉幕府が滅びてからも、足利氏、後北条氏、豊臣氏、徳川氏などの有力な大名から篤い信仰を受け守られてきた社です。
階段を上って門をくぐると、すぐ右に大きな銀杏の木が出迎えてくれます。樹齢約900年といわれ、高さが約25m、幹周りが約10mあるそうです。古木というのは不思議なもので、その樹の周りだけ時間がとてもゆったりと流れているような感覚におそわれます。

本殿は室町時代初期に建てられた鎌倉最古の木造建築物で、鶴岡八幡宮の若宮社殿を移築するという通例にしたがって元和八年(1622)ごろに移築されたものです。
本殿の手前、向かって右側にある梅の木は鎌倉一早咲きの紅梅で、左側には白い花の中心が青みがかって見える“古代青軸(こだいあおじく)”があります。
古代青軸のやや左側にある清水崑のかっぱ筆塚の裏側にある文字は、川畑康成が揮毫したものです。その奥の一段高くなっているところには、横山隆一ら漫画家154人の絵が飾られた絵筆塚があります。

荏柄天神社拝殿 荏柄天神社の大銀杏

2011年1月15日

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円覚寺 舎利殿

この舎利殿は室町時代に廃寺となった鎌倉尼五山の第一位太平寺にあった仏殿を、円覚寺の塔頭正続院へと移築したもので、建造物としては鎌倉で唯一の国宝です。関東大震災で倒壊してしまいましたが、昭和4年に復元されました。
戦国時代に火災で円覚寺も多大な被害を受け、正続院の開山堂も昭堂も失ったため、北条氏康が太平寺の仏殿を正続院へと移築し、そこに佛牙舎利を納めたので「舎利殿」と呼ばれるようになったそうです。(移築に関しては、円覚寺の古文書の北条氏康の書状に記されているとのことです。)
舎利殿は屋根が裳階(もこし)つきの二重構造になっており、屋根から軒のかけての反りが美しく、軒下の細い垂木が扇のように広がり、柿葺の屋根を一層大きく見せています。細い柱が四隅とその間に4本ずつあり、それぞれ礎石の上に置かれています。波欄間とよばれる細い格子の隙間から内部へ光と風が入り、湿気などからうまく守られている形になっています。
花頭窓はシンプルで窓枠が縦に真っ直ぐ造られており、鎌倉時代後期の特色をよく現わしています。尼寺の仏殿であったため、このような繊細な美しさがあるのでしょうか。
舎利殿内部には、“佛牙舎利”(お釈迦様の右奥歯)が厨子に納められて置かれており、その手前に須弥壇が置かれ、観音菩薩と地蔵菩薩が祀られています。
この佛牙舎利は、源実朝が宋の能仁寺に遣いを送り、そこで賜ったもので、はじめ大慈寺に納められたそうです。その後九代執権北条定時が、北条一門の守護を願って円覚寺へと遷したといわれています。
正続院は修行道場のため、普段は門より入ることはできません。毎年11月の宝物風入れの機会に訪れて、ぜひこの繊細で美しい舎利殿を実際にご覧になってください。
正続院の門外より撮影した舎利殿

2011/11/4

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御霊神社

極楽寺の坂ノ下から星の井前を通り長谷方面へ少し行ったあたりを左に入ると、江ノ電の踏み切りの向こうに御霊神社の鳥居があらわれます。御霊神社の境内は緑が豊かで古木が多く、樹齢推定350年のタブと銀杏、桜の古木がそれぞれ雌雄対になって参道をはさむように植わっています。
本殿は一段高くなったところにあるのですが、それは極楽寺トンネルで掘り出された土を盛り上げたものだそうです。このときに銀杏の木も地面から1メートル以上もの土を盛られたのですが、土が関東ローム層だったために木は生き続けることができたそうです。タブの木は「かながわの名木100選」にも選ばれています。
御霊神社の由来は、鎌倉氏、梶原氏、村岡氏、長尾氏、大庭氏の五氏の霊を祀ったことによるものだとされています。現在では鎌倉権五郎景政公だけが祀られています。
命日の9月18日には県の無形文化財にも指定されている面掛行列が行われます。
木彫りのしかけ

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高徳院 国宝 銅製阿弥陀如来坐像

高徳院の大仏様は民の浄銭によって造立され、造立当時の姿をほぼとどめた貴重な阿弥陀仏です。暦仁元年(1238)に着工し寛元元年(1243)に完成したものは木造のものでしたが、宝治元年(1247)年の大風により仏像と社殿が破壊されてしまったため、建長四年(1252)に再び着工し、数年かけて銅製の阿弥陀如来坐像と大仏殿が完成しました。
その後度重なる津波により大仏殿は破壊されてしまいましたが、その礎石は今でも境内に残っていて、訪れたひとたちがそこに座って休憩している姿をよく見かけます。
鎌倉はたびたび大地震に見舞われましたが、台座と接合されていない造りが幸いし、前後にずれが生じても大仏様自身はずっと無事でおられました。
大正十五年の耐震工事で一度台座と大仏様が固定されたのですが、昔からの造りの方が地震に強いと見直され、昭和三十五年の修理でもとのように台座と切り離されました。
鎌倉幕府が滅び鎌倉が衰退し、荒れ放題だった時期もあったそうです。この長い年月を大仏様は700年も前からずっとそこに座って見てこられたのですね。
銅製阿弥陀如来坐像

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丸山稲荷社

鶴岡八幡宮の本宮の建つ地に古くからあった稲荷社で、八幡宮が由比八幡からこちらに移されたときにその座を譲り、現在の地に移されました。稲荷社が移された先は、小高い丘になっているのは、やはり格式を尊重してのことからでしょうか。
赤い鳥居がいくつも建てられている細い石段を登ると、こじんまりとした静かな空間に赤い社殿があります。
この社殿は室町時代に建てられたもので、鶴岡八幡宮の中では最古の建築物です。きれいに赤い漆が塗られているため、一見古いものには見えませんが、1398年(応永五)に建てられた「一間社流見世棚造(いっけんしゃながれみせだなづくり)」という形式のもので国の重要文化財指定されています。
鶴岡八幡宮に行かれる機会がありましたら、ぜひこちらにもお参りをして、社殿をじっくりとご覧になってください。
丸山稲荷社 一間社流見世棚造

2009年5月30日

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元八幡(由比若宮)

康平六年(1063)、源頼義は前九年の役で安倍氏を討伐し奥州を平定したあと、その出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を、この由比郷鶴岡に勧請して源氏の氏神として祀ったのが始まりと伝えられています。
かつてこのあたりは砂丘と湿地帯で、由比若宮が建つところはその砂丘の高台でした。今でも一段高いところに境内があり、国の指定史跡となっています。
赤い鳥居をくぐると、すぐ左に「義家旗立の松」といわれる切り株があります。社殿に向かって左側には根元がひとつで幹が何本にものびる銀杏の木がありました。人気もなく、ただひっそりとした境内ですが、900年以上も前に訪れた源氏の大将たちにふと思いを馳せました。
元八幡(由比若宮) 義家旗立の松
数本の幹をもつ銀杏 由緒ある社殿

2009年7月19日

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安養院 鎌倉最古の宝篋印塔

安養院の本堂には寺の歴史を物語るように、たくさんの仏像が祀られています。その裏手には鎌倉最古で高さが2.9mある宝篋印塔があり、開山である尊観上人のものといわれています。その横には少し小ぶりな北条政子の宝篋印塔や石仏などが祀られています。
本堂の左の道を行くと、一段高くなっているところに風化のはげしい石の角柱がたっています。これはかつて扇ガ谷にあった人丸塚から移されたものだということです。
平家の悪七兵衛景清という武将の娘、人丸姫が、捕らえられた父に会うためにはるばる鎌倉までくだり、父景清亡き後は尼となって庵を結んで、生涯父の菩提を弔ったと伝えられています。後に薄幸の人丸姫を供養するためにつくられたのが、人丸塚といわれています。
景清が捕らえられていたのは仮粧坂近くにある岩屋で、景清窟と呼ばれていますが、現在ではくずれかけて岩屋の形をうかがい知ることはできません。(鎌倉ハイキング 北鎌倉~長谷の「景清の土牢」をご参照ください。)
鎌倉最古の宝篋印塔 石仏群 人丸塚からうつされた石柱

2009年7月19日

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粟船山 常楽禅寺(ぞくせんざん じょうらくぜんじ)

もともとこの地に北条泰時の夫人の母の墓があり、嘉禎三年(1237)、その供養のために粟船御堂を建てたのが始まりとされます。開基は北条泰時で開山は退耕行勇で、密教系要素の濃いお寺でした。北条泰時も亡くなると、ここ常楽寺に葬られました。
宝治二年(1248)に鎌倉に入り壽福寺に逗留していた蘭渓道隆は、時の執権北条時頼の招きにより常楽寺に移り、ここで禅を広めていきました。
常楽寺には鎌倉三名鐘のひとつで、鎌倉最古の梵鐘があります。ほっそりとして美しい関東形の典型の鐘です。現在は鎌倉国宝館に寄託されていて、そちらへうかがえば「姿は常楽寺」といわれるその美しい鐘を拝見することができます。

バス通りから参道をゆくと、正面に茅葺の山門が見えます。この山門は四脚門といい、軒先の桁を天秤のように支えるところが珍しいものだそうです。
山門をくぐり仏殿に向かって歩いていくと、左側に開山お手植えと伝わる大銀杏があります。とても太い幹の部分は途中で折れて空洞化しています。大正時代に傾き、昭和に入って暴風雨により倒れてしまったそうですが、その周りに沢山の若い樹が勢いよく伸びています。

仏殿は元禄四年(1691)に再建されたもので、禅宗様式の方三間寄棟造の建物で、本尊の阿弥陀三尊像が祀られています。天井には加納雪信の雲龍図が描かれています。建長寺の小泉氏の作品の龍は5本の爪を持っていますが、こちらは3本でした。
本来禅宗様式の仏殿の床の石の敷き方は、四半敷といって斜めに敷き詰めるのが特徴なのですが、常楽寺の仏殿では碁盤の目のようになっています。これは江戸初期に再建されたという特色の現れだとのことです。

仏殿の左隣に文殊堂があり、鎌倉時代末期の作と伝わる秘仏文殊菩薩坐像が祀られていて、毎年1月25日の文殊祭のときにご開帳されます。茅葺入母屋造のこのお堂は、明治に英勝寺から移築されたもので、寄棟造だったものを入母屋造に変え、高床式にしたとのことです。
仏殿裏に古い墓が3つあり、その右端のものが北条泰時の墓とされていますが、その古い石塔は寄せ集めのものだそうです。

本堂右手奥には色天無熱池という池にはかつては小さな弁天社があり、蘭渓道隆が江ノ島弁財天から授けられたと伝わる乙護童子が祀られていたと伝わっています。この乙護童子に関する伝説があるのですが、それは “鎌倉の伝説「乙護童子」”で扱うことにいたします。
山門を出てすぐ脇の細い道を登っていくと、木曽義高の墓と伝わる土盛があります。頼朝の命により藤内光澄によって殺害された義高は、首実検のあとここより南西の木曽免という水田に青磁のつぼに入れられ埋葬されていたのを、後年になって田の所有者がつぼを堀だし、泥まみれの骨を洗い清めて常楽寺に埋葬されたと伝えられています。
木曽義高については、鎌倉昔語り「大姫のはかない生涯」をご覧ください。

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今泉山 一心院 称名寺

称名寺は浄土宗のお寺で、大船駅のホームを分断するように流れる砂押川の源流部にあります。大船駅よりバスで20分ほどの奥まったところにあるためか、訪れるひとも少ないようです。
山門を入り、坂を登っていくと六体地蔵が出迎えてくれます。一番左側にいらっしゃるお地蔵さまはとても鼻が高く特徴的です。本堂には上品上生の本尊阿弥陀如来坐像と、観音菩薩、勢至菩薩をはじめとする二十五菩薩が祀られています。本堂の隣には弁天堂があり、八臂の弁財天が祀られていますが、扉は閉じられていてその姿を拝見することはできません。
六地蔵が迎えてくれる 弁天堂
弁天堂の前から137段の苔むして滑りやすい階段を慎重に登ると、鬱蒼とした木々の間から不動堂が現れます。この不動堂に寺の縁起となった今泉不動と大黒天が祀られています。
苔むした石段 不動堂
不動堂の裏の崖の階段脇に不動明王の眷属である三十六童子が置かれ、階段の一番上には制咤迦童子・矜羯羅童子が並び立ち、その奥の一段高くなったところには、何と智拳印を結んだ大日如来が祀られています。不動明王は大日如来の化身といわれています。本来この二童子を従えて立つのは不動明王ですが、この位置に大日如来が祀られているというのは大変めずらしいものではないでしょうか。
三十六童子
制咤迦童子 大日如来 矜羯羅童子

再び弁天堂前に戻り、さらに下りて行くと水音とともに陰陽の滝が現れます。水際への階段を下りると、左側に不動明王が置かれている岩屋があります。その先に高さ1.2mの女滝が流れ、向かい合う崖に3mの高さから落ちる男滝があります。かつてはこの滝で修行をするひとも多かったとのことです。
滝横の岩屋
男滝のほうはだいぶ離れたところに水源があるのですが、女滝のほうはこのすぐ近くが水源となっているため、水がとてもきれいです。清涼な水しぶきに日の光があたってとてもすがすがしい気分になりました。
女滝 男滝
弘法大師が今泉不動を開いたのは弘仁九年(818)と伝わっています。その後建久三年(1192)に真言密教の円宗寺が別当として開かれたとのことです。 その後堂は廃れ無住となり、不動明王像も大黒天像も岩屋に置かれていたそうです。
貞享元年(1684)に直誉蓮入が江ノ島弁才天に参篭したときに霊夢を得て、ここに不動堂と阿弥陀堂を建立し、元禄六年(1693)に増上寺の末寺となり現在の山号と寺号を与えられ浄土宗となりました。

以下は寺の縁起となった伝説です。
弘法大師が諸国巡行で金仙山を訪れたときのこと、紫雲に囲まれた老翁と老婆が現れ、この霊地に不動明王を祀り衆生を救うようにと告げられました。
そして老翁たちは傍らの岩を穿つと陰陽の滝が流れ出し、水の乏しいこの村に恵みをもたらしたのです。それ以来“金仙山”を“今泉山”と称するようになりました。
そこで弘法大師は不動明王の石像を造って本尊とし、大黒天の石像を造って伽藍の守護神としました。 この老翁は不動明王、老婆は弁財天の化身であったと伝えられています。

水音にまざってテニスのボールを打つ音や、近隣のゴルフ場へとばし行く車の音に興ざめする部分はありましたが、豊かな自然を感じることのできるお寺です。

2009/08/01

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