岡寺 関西寺社史跡めぐり 塔と石2006夏


行けば行くほどまた行きたくなる・・・京都・奈良は奥が深い。わ~っと大勢でまわってあっという間に寺院を通りすぎた中学の修学旅行は、今更ながらもったいないことをしたとつくづく思うのです。
2泊3日の京都・奈良・・・いつものながら二人の行きたいところが目白押し。これは何か課題を決めて計画を立てなければ奈良だけで3日が軽く過ぎてしまいそうなので、泣く泣く目的を絞ることにいたしました。ということで今回のお題は「塔」と「石」と相成りました。(2006/8/27~29)

◇明日香   ◇斑鳩   ◇奈良   ◇当尾   ◇京都

あこがれの明日香へ

伊丹空港からバスであべの橋へ行き、そこから近鉄吉野線で飛鳥に向かいました。「飛鳥王国パスポート」を買い、駅近くでマウンテンバイクを借りて出発。
あこがれの明日香はとにかく見て回りたいところだらけなのですが、強行日程のため今日中に斑鳩めぐりもしなくてはいけないので、とにかく一気にめぐってまいりました。見てないところがまだまだたくさんあるので、また来なくては・・・

明日香マップ

猿石

吉備姫王墓内に置かれている4体の猿石は、江戸時代に小字池田の田から掘り出されました。かつては欽明天皇陵の南側に並べられていましたが、明治時代に今の場所に移されたそうです。
左から女、山王権現、僧、男とよばれています。高取城にはつれ去られた一体の猿石が置かれているそうです。

猿石 左から女、山王権現、僧、男

鬼の俎板・鬼の雪隠

昔、鬼が旅人を捕まえてまな板で調理し、雪隠で用をたしたといわれています。
実はまな板は底石、雪隠は蓋石として一つの石室をかたどっていたものだそうです。誰のお墓であったかは不明なのだそうです。

鬼の俎板鬼の雪隠

亀石

鬼の俎板からしばらくのどかな田舎道を行くと、売店があります。するとそのすぐ横に巨大で可愛い亀石がありました。
昔、大和が湖だったころ、湖の対岸の当麻と喧嘩になり、湖の水を取られてしまいました。湖に住んでいたたくさんの亀が死んでしまい、哀れに思った村人が亀を石に刻んで供養したそうです。今は南西を向いているけれども、西を向き当麻をにらみつけたときに大和盆地は泥沼になると言われています。

亀石亀石と売店

石舞台古墳

横穴式古墳で、7世紀初めに造られたとされています。被葬者は不明ですが、蘇我馬子の墓ではないかと言われています。
石舞台の名前の由来は、キツネが女の人に化けてこの上で踊ったっとされる説や、この地にやってきた旅芸人が舞台がなかったために、この上で演じたという説があります。もちろん今は石舞台に上るのは禁止されていますが、石室に入ることができます。

石舞台古墳古墳内部

岡寺

正式には「東光山 真珠院 龍蓋寺」。西国三十三所観音霊場、第七番札所。日本最初の厄除け寺とのことです。災害を起こして村人を苦しめていた龍を法力で池に封じ込め、石で蓋をしたといわれている龍蓋池が本堂前にあります。

岡寺岡寺 三重塔

酒船石

大きな石の表面に何やら幾何学的な模様が刻まれています。何に使われていたのかは不明ですが、山の下にある亀型石造物と何らかの関係があるのではないかと考えられているそうです。
酒船石は見ると両側が削り取られているのが分かります。この削り取られた部分は高取城の城壁に使われているそうです。次回はぜひ高取城へ足を運び、連れ去られた猿石と削られ城壁にされている酒船石分身を探しにいきたいと思います。

酒船石酒船石

亀型石造物

酒船石から下ったところに広範囲に遺跡があるのですが、ほとんどが埋め戻されて今はほんの一部だけが公開されています。水をくみ上げる部分はレプリカです。
これらを造ったのは斉明天皇だといわれています。 日本書紀に書かれている「宮の東側に築いた石垣」が見つかれば、山の上にある酒船石との関連性がわかってくるそうです。
四角い部分で不純物を沈殿させ、きれいな水を亀型に流したようです。儀式的なことに使われていたのではないかと、ボランティアのおじさんにお話をうかがうことができました。時間がもっとあれば、もっとたくさんお話を聞きたかったです。ああもったいないことをした。
よく見ると、敷き詰められた石にも円に置かれているなどの規則性があり、何時間でも見ていたくなる場所でした。

亀型石造物遺跡亀型石造物

飛鳥寺

飛鳥寺はなんとものどかな場所にたっています。飛鳥大仏は鞍作止利が作った日本最古のもとされているが、鎌倉時代の火災で甚大な被害を被り、顔の上半分と右手の指の一部だけが最初に作られたものだそうです。ここはストロボをたかなければ写真撮影をさせてくれます。

追記:近年の研究で、つぎはぎのように見えるのはその当時の手法によるもので、実はほとんどが当時のもののままなのではないかという見方が出てきました。(2013年)

飛鳥寺境内飛鳥大仏

蘇我入鹿首塚

蘇我入鹿首塚

飛鳥寺の西門からしばらくいくと、田んぼの真ん中にぽつんと入鹿の首塚とよばれる五輪塔がたっています。
飛鳥板蓋宮で暗殺された入鹿の首は鎌足を追いかけていきましたが、力尽きてこの地に落ちたといわれています。
その鎌足が逃げ込んだ冬野川上流にある気都和既神社の森は、鎌足が「もうこぬだろう」と言ったとのことから「もうこんの森」とよばれているそうです。
右奥に見える丘が、 蘇我氏の屋敷があったと伝わる甘樫丘です。

夕暮れの斑鳩

斑鳩の里

明日香村を後にして電車とバスを乗りついで斑鳩へ着いたときにはもう夕暮れ時・・・
小雨が降る空をとびかっていたつがいの白鷺がため池に舞い降りてきたり、青い草のしめった匂いと静けさとが一面に広がっていて、斑鳩には独特な時間の流れがあるように感じました。 そんな独特の空気を堪能する間もなく、とにかく急げ急げと歩いたのでした。もっとゆっくり見たかったのに、あれもこれもと欲張りすぎました。




法起寺

聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を太子の遺言により、山背大兄皇子が寺に改めたと伝えられています。
三重塔(国宝)は慶雲三年(708)に建立されたもので、現存する三重塔の中で最古のものです。裳階のある薬師寺の東塔をのぞけば、法起寺の三重塔が日本最大になります。1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」として世界遺産に登録されました。

三重塔(国宝)歓喜天が祀られている聖天堂

法輪寺

法輪寺 三重塔

法輪寺は創建から江戸時代半ばまでの史料が乏しいため、聖徳太子の病気平癒のために山背大兄王らによって建立されたという説と天智九年(670)の斑鳩寺焼失の後、百済開法師・圓明法師・下氷新物らによって創建されたという説があり、創建については不明なことが多いようですが、飛鳥様式の仏像を2体が伝わっていることなどから7世紀末ごろまでにはかなり寺観が整っていたと考えられています。
三重塔は昭和19年の落雷により焼失し、その後の再建のため国宝指定も取り消され、世界遺産には含まれていません。国の指定取り消しにより、再建については国からの援助は一切なく、ご住職が二世代にわたって全国を勧進行脚され、様々な方々の協力により再建が実現されました。
創建当初は500mほど東のほうにあり、16世紀末ごろに現在地に移転したと推定されています。





中宮寺

中宮寺本堂

法隆寺の東院に隣接するところにあり、聖徳太子が母である穴穂部間人皇后の御所を寺にしたと伝えられています。発掘調査により、法隆寺と同じころの創建と推測されますが詳細は不明です。創建当初は400mほど東にあったものを16世紀末に移転したとされています。
現在の本堂は昭和43年(1968)に高松宮妃の発願により建立された現代和風建築となっています。




法隆寺

法隆寺は世界最古の木造建築で、1993年に日本で始めて世界遺産に登録されました。
日本最古の五重塔の最下層の内陣には塑像群があります。
用明天皇が自らの病気の平癒を祈り寺と仏像を造ることを誓願しましたが実現しないまま崩御されたため、推古天皇と聖徳太子がその遺志をついで推古十五年(607)に造られたとされます。

夢殿は斑鳩宮跡に太子をしのんで建てられた上宮王院(東院伽藍)の中心にある八角円堂で、その中央の厨子には聖徳太子等身といわれる秘仏救世観音像などが安置されています。
明治になって岡倉天心アーネスト・フェノロサが僧の反対を押し切って救世観音の厨子をあけたとき、長い白い布で厳重に覆われていたそうです。白い布をほどくときに僧侶はみんな逃げ出したと伝えられています。
何百年も人目にふれなかったことや、光背が直接頭に釘で打ち込まれていること、手には宝珠ではなく舎利瓶を持っていることなど、夢殿の救世観音には畏怖の念をいだかせる何かがあるのかもしれません。

法隆寺 五重塔 夢殿

奈良の古寺をめぐる

興福寺

公園内は朝早いこともあって人もまばらでのどかな雰囲気の中、シカせんべいを買ったためシカと格闘することに・・・。奈良のシカはちょっと強烈です。 さくさくと次へ移動をしようと思っていたのですが、国宝館でおもわず阿修羅像に見とれて時間がたつのも忘れてしまいました。
興福寺の五重塔は天平二年(730)に建立されました。その後焼失・再建をくりかえしました。現在の塔は応永三三年(1426)ごろに創建当初の位置に再建されたものです。薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像が安置されています。高さは50.1mで日本で2番目に高い五重塔です。
(不覚にも三重塔を撮り忘れました。)

奈良公園の鹿興福寺 五重塔

薬師寺

薬師寺は1998年12月に世界遺産に登録されました。東塔は裳階のある三重塔(国宝)で、薬師寺で唯一創建当時より現存している建物です。
西塔は1981年に復興されたものです。ダンナがパンフレットに載っている薬師寺の写真を撮った場所に行きたいと言うので、地図を見た私は薬師寺より西にある大池だと主張しました。でも私の説は納得がいかないようで、半信半疑で車を走らせ大池へ向かいました。見事大当たり!野生の勘はなめちゃいけません。
こうして納得いくまで、薬師寺の写真を撮ったのでした。

金堂・東塔・西塔金堂・西塔・東塔

当尾の古寺と石仏をめぐる

浄瑠璃寺の周りの山中は石仏の宝庫です。たくさんの磨崖仏に出会うことができます。できることなら一日時間をとって石仏めぐりをしたいところですが、時間に余裕がないので浄瑠璃寺から岩船寺までの間だけを散策しました。
浄瑠璃寺の入り口にある駐車場の売店で石仏マップを買い、飲み物もしっかり買って出発!昨日の飛鳥でも大汗をかき、今日も山歩きで大汗をかきました。きっとこの二日間で痩せたことでしょう。(実際、出勤したら同僚に「すごく痩せたね。どうしたの?」と言われました。)
道の途中からは鬱蒼とした山道になります。藪の中をいくため、少しでも立ち止まるとすぐに蚊やアブが近寄ってきます。虫除けをしていかなかったので、手に持った地図をぶんぶん振り回しながら歩きました。次回は虫除けは必携ですね。

当尾石仏マップ
藪の中三尊

藪の中三尊


浄瑠璃時から少し行くと、道の右側の藪の中に磨崖仏が現れます。当尾の石仏の年号銘中最古の磨崖仏なのだそうです。
2つの岩肌に十一面観音菩薩立像、地蔵菩薩立像、阿弥陀如来坐像が彫られています。



あたご灯籠

あたご灯籠


あたご灯籠とは、火伏せ・防火の神様が祭られている愛宕神社への参道に火を灯すためのものだそうです。
なんともいえない形をしていて印象的です。あたご灯篭を過ぎてしばらくいくと、鬱蒼とした山道になってきました。


カラスの壺

カラスの壺


カラスというのは烏のことかと思っていましたが、どうやら唐臼のことのようです。
この向かい側にカラスの壺磨崖仏があります。



カラスの壺磨崖仏

カラスの壺磨崖仏


舟形光背を持つ阿弥陀如来仏の横に火袋が彫られていて、灯明をそなえることができます。
とても残念なことに、トカゲに気を取られて左側面に彫られている地蔵菩薩立像に気づきませんでした。・・・残念。


眠り仏

眠り仏

カラスの壷から上り坂をしばらく行くと、眠り仏と笑い仏があります。
眠り仏(地蔵石仏)は長い間ずっと土の中で休んでおられるので、いつの間にか眠り仏と呼ばれるようになったそうです。



笑い仏

笑い仏

眠り仏のすぐ横には観世音菩薩坐像、阿弥陀如来坐像、勢至菩薩坐像の阿弥陀三尊が岩に刻まれており、やさしく微笑んでおられます。
笑い仏の目の前に広がる景色もまた格別です。この磨崖仏に出会ったときに何だかほんわかと幸せな気持ちが湧いてきて、当尾にきて本当によかったと思いました。


八帖岩

八帖岩

笑い仏から少し戻り、足元の悪い急な階段を上る途中に巨大な岩があります。
どれくらい巨大か、153cmの私と比べてみました。




不動明王立像(一願不動)

不動明王立像(一願不動)

大岩に等身大の不動明王が刻まれています。この不動明王にお参りをすると、一つだけ願いごとをかなえてくれるそうです。
浄瑠璃寺から岩船寺へのコースの途中、左の階段を降りたところにあり、岩の下には湧水があります。ここは特にヤブ蚊が大量にいました。








一鍬地蔵

一鍬地蔵

岩船寺からの帰り、同じ道を通るのもつまらないと思い、カラスの壷から別のコースを通ろうとしましたが道がよくわからず、そのうちかなり大粒の雨に降られたので、あきらめて一鍬地蔵だけ写真を撮ってきました。
鍬で一かきしたようなところに線でお地蔵様が描かれているそうですが、この時はよくわかりませんでした。あとから調べてわかったのですが、午前中の光の中、少し離れて見るといいそうですよ。



浄瑠璃寺

浄瑠璃寺は天平十年(738)に行基によって開かれたといわれています。当尾の里にあり、周囲にはたくさんの石仏や磨崖仏が点在しています。
国宝である本堂には九体の阿弥陀仏がひとつひとつの柱の間にきちっと収まっていました。四天王像四体(国宝)のうち多門天と広目天は国立博物館に置かれているそうで、本堂には持国天と増長天だけが祭られています。ほかにも重文の吉祥天女像(残念ながら厨子しか拝見できませんでした)や矜羯羅童子と制多迦童子を従えた不動明王三尊像(重文)などが祭られています。
ずっとこの中にいたいような、出るのがとてもおしくなるような空間でした。

浄瑠璃寺 三重塔浄瑠璃寺 本堂

岩船寺

岩船寺 三重塔

浄瑠璃寺から石仏をたどって1時間半ほど行くと、岩船寺にたどり着きます。山門の手前には石風呂があって、昔僧侶がここで身を清めてからお参りしたそうです。
三重塔は仁明天皇が智泉大徳を偲んで建立されました。現存する塔は、鎌倉時代に再建されたものです。
三重塔には隅垂木をささえる木彫の天邪鬼がいます。訪れる機会がありましたら探してみてください。
境内には軸石のくぼみからは水晶の五輪舎利塔が見つかった十三重石塔や五輪塔、石室不動明王立像などの重要文化財があります。
石室不動明王立像はその昔、船寺の塔頭湯屋坊の住僧が眼を患ったときに不動明王に七日間の断食修行を行い、満願日に眼病は治癒したと伝えられています。そして恩に報いるため自ら不動明王を彫ったといわれているそうです。







京都古寺めぐり

修学旅行でまわったところを懐かしむようにめぐりました。中学生のときと今とでは、目に映るものが違って見えました。
京都をめぐるときは、市バスの一日乗車券がお得です。

金閣寺

金閣寺舎利殿

金閣寺は1994年に古都京都の文化財として世界遺産に登録されました。 正式には北山鹿苑寺といいます。
西園寺公経の別荘であったものを室町幕府三代将軍足利義満が譲りうけ、応永四年(1397)に山荘北山殿をつくったのが始まりです。
義満は将軍職を退いたあとも実権は握り続け、この北山殿で政務を取り仕切っていました。義満が亡くなった後、遺言により応永二七年(1420)に禅寺とし、義満の法号の「鹿苑院殿」より寺名が鹿苑寺となりました。
昭和二五年(1950)に学僧・林承賢に放火され全焼してしまいましたが、昭和三十年(1955)に元のとおりに復元されました。


仁和寺

仁和二年(886)に光孝天皇の勅願により造営が始まりましたが完成をみることなく崩御され、遺志を引き継いだ宇多天皇が仁和四年(888)に落成されました。 創建当時は西山御願寺と称されましたが、後に創建の年号をとって大内山仁和寺と改められました。
宇多天皇は出家後にこの仁和寺伽藍の西南に「御室」という僧坊を建ててそこで暮らしたため、仁和寺に「御室御所」とも呼ばれました。
仁和寺は金閣寺と同じく1994年に古都京都の文化財として世界遺産に登録されています。

仁和寺 北庭南庭よりのぞむ五重塔

ところで徒然草に「仁和寺にある法師年寄るまで、石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩よりまうでけり。極楽寺高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年ごろ思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。」 とあるのをとあるのを覚えておいででしょうか。高校生の頃、このくだりを読んでから仁和寺を訪れてみたかったのですがなかなかかなわず、やっと仁和寺にいくことができました。
余談ですがこのくだりに出てくる石清水とは、前九年の役に臨む源頼義が武運を祈願した石清水八幡宮のことで源氏の氏神様です。その役で勝利をおさめた頼義は康平六年(1063)に鎌倉に石清水八幡宮を勧請して由比若宮を造営しました。その後の世にその子孫である源頼朝が社殿を小林郷松が岡へ移して現在の鶴岡八幡宮となりました。
京都もいろいろと欲張り行程を組んでいたので、ゆっくりとは見ることができず残念でした。今度はゆったりと過ごしに訪れたいところです。

銀閣寺

金閣寺・仁和寺同様1994年に古都京都の文化財として世界遺産に登録されました。正式には東山慈照寺といいます。
文明五年(1473)、室町八代将軍足利義政が応仁の乱で焼失した浄土寺跡に東山山荘(東山殿)を造営しました。 現在では銀閣と東求堂のみですが、東山殿には大規模な建造物が建てられ、完成までに8年もの月日がかかったといわれています。義政は造営開始の翌年には東山殿に移り住んで書画や茶に親しむという、 応仁の乱で疲弊していた都の民とは対照的な生活を送っていたようです。

展望所よりのぞむ観音殿観音殿の屋根にアオサギが

金閣寺を模して建てられた観音殿は銀閣と称されました。外壁には黒漆が塗られており、「銀箔を貼る予定であったが財政難のために断念された」「銀箔を貼る前に義政が他界した」「貼られていた銀箔が落ちてしまった」などの説がありましたが、 2007年の調査によって銀箔が貼られた形跡はないことがわかりました。
私はきらびやかな金閣寺よりも銀閣寺の控えめな感じが好きだったのですが、造営された経緯を知ってからは素直に好きとは言えなくなりました。

三十三間堂(蓮華王院三十三間堂)

三十三間堂

後白河上皇が院政を行った御所の一画に建てたられたお堂が三十三間堂です。建長元年(1249)に焼失しましたが、後嵯峨上皇によって再建されました。
蓮華王院の本堂内の柱間が三十三あることから三十三間堂と称されています。また三十三という数は、観音菩薩が三十三に化身することに基づいているようです。
中尊を中心に、左右500体、合計1001対がご本尊(重文)で、正しくは「十一面千手千眼観世音 」といいます。等身立像のうち124体はお堂創建時の平安期のもので、あとの800余体は鎌倉期 に約16年かけて復興されたものだそうです。
観世音の前列には雷神・風神 、二十八部衆像などの国宝が立ち並び、何時間でも拝見していたいと思いましたが、飛行機の時間があるのでゆっくりできずに残念でした。