十三仏とは、不動明王(初七日)・釈迦如来(二七日)・文殊菩薩(三七日)・普賢菩薩(四七日)・地蔵菩薩(五七日)・弥勒菩薩(六七日)・薬師如来(七七日)・観音菩薩(百ケ日)・勢至菩薩(一周忌)・阿弥陀如来(三回忌)・阿如来(七回忌)・大日如来(十三回忌)・虚空蔵菩薩(三十三回忌)のように各法事をつかさどる仏のことです。
十三仏のうち八尊は、それぞれの
干支の守護尊となっています。ちなみにダンナの守護尊は勢至菩薩、息子の守り本尊は阿弥陀如来、私の守護尊は大日如来です。 三十三観音巡り同様、十三仏巡りも札所の順番を守ってお参りしました。
飯盛山五大堂明王院古義真言宗のお寺で、別当定豪律師により開かれました。萱葺きの本堂には本尊五大不動明王が納められています。京都仁和寺の末寺で鬼門除け不動と呼ばれています。
五大明王とは不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明ですが、江戸後期の火災で不動明王を残して四体の明王は焼けてしまい、現在あるものはその後作りなおしたものだそうです。
ここは鎌倉十三仏の一番札所なので、十三仏用の納経帳を買ったのですがリングノートのような納経帳でちょっと・・・
しかし、専用の納経帳なので、十三仏についての情報が載っていたのでそれはそれで便利でした。五大明王は毎月28日の護摩法要の際に公開されます。(境内は撮影禁止)
浄妙寺は鎌倉五山の第五位で、稲荷山浄妙寺といいます。文治四年(1188)、退耕行勇を開山とし足利善兼が創建しました。当初は東の極楽寺といわれていましたが、後に浄妙寺と改めたと伝えられています。
五山が定められたころは、七堂伽藍と塔頭二十三院を数えましたが、火災などで衰退し、現在は総門、本殿、客殿、庫裡殿だけになっています。本殿の正面よりお参りはできますが、仏様はかなり離れたところに安置されているため、お顔を拝見することはできませんでした。境内はきれいに手入れされているのが、かえってもの寂しさを感じました。
聖観世音菩薩は鎌倉三十三観音の第九番札所なのですが、浄妙寺の什宝一覧に書かれていないのはなぜでしょうか。ちなみにこの地域の地名は浄明寺となっています。
永亨八年(1436)に日出上人を開山とし天台宗の夷堂として創建され、その後日出が日蓮宗に改宗したために、寺院は日蓮宗の本覚寺として改められました。
ご本尊は釈迦三尊で、江戸八代将軍徳川吉宗の孫で「寛政の改革」を行った松平定信の直筆「東身延」の額が伝わっています。
また第二世の日朝が目の治癒で信仰を集めたため、お寺は「日朝さま」とも呼ばれ親しまれています。
骨堂には日朝によって日蓮の遺骨が分骨され、東身延と呼ばれるようになりました。
訪れたときには初詣客向けの装飾や歌謡曲がかかっていて、驚くほどとても賑やかな境内でした。境内の八角堂には鎌倉七福神のひとつで、縁結びや商売繁盛の神の夷様が祀られています。
壽福寺は鎌倉五山の第三位で、北条政子が明庵栄西禅師を招き開いたお寺です。
寺の裏山にはやぐらがたくさんあり、源実朝と北条政子の墓といわれているものもあります。お参りに行こうとして前を歩いていた観光客についてどんどん奥に歩いてお墓にたどりついてしまいました。さてここはどこ?と思っているところに、お墓にいた方に「まさこさんを見に来たの?」と話しかけられてまさこさんて誰?っと一瞬わからなかったのですが、「まさこさんのお墓はあっちよ」と言われて北条政子のやぐらを見に来た観光客だと思われたようなので「あ、違います」というと何だかむこうもばつが悪そうでした。ご親切にすみません。そのあと別の方に「銭洗い弁天はここを登っていくんだよ」と言われて、「ありがとうございます。でも今日は銭洗いには行かないんです。」といってお参りをしにもと来た道をもどりました。
ご朱印所は「一般拝観お断り」の仕切りを越えていくとあります。そこで参拝をしたい旨を申し出ると、本堂の前まで行きガラス越しに参拝させていただけます。一般の参拝は中門のところからすることになっています。こちらのご朱印はご住職不在のためすでに書かれてあったご朱印に日付をいれて渡されました。
円応寺は建長二年(1250)に智覚禅師により創建されました。本尊は運慶作の閻魔大王坐像です。
本堂は閻魔堂・十王堂とも呼ばれ、亡者が冥界において出会う「十王」を祀っています。閻魔大王とは地蔵菩薩の化身であるといわれています。
ご朱印をいただくときに「十三仏」と伝わらなかったため、十王のご朱印をいただいてしまいました。でもご朱印をよく見てみると、「子育てえんま」と判がおされており、結果的には今の私たちにはとてもありがたいものをいただけました。後日改めてお参りにまいります。
浄智寺は鎌倉五山の第四位で、弘安四年(1281)執権北条時頼の三男宗政の菩提を弔うために、宗政とその子師時を開基として宗政の妻が建立しました。
延文元年(1356)の火災で初期の伽藍は失いましたが、室町時代の頃には主要な建物や塔頭などが建ち揃っていたようです。境内をぐるりまわっていくと、やぐらの中に布袋様がおられます。ふくよかなそのお腹はなでずにはいられませんでした。境内を一巡するとご朱印所があります。丁寧に書いていただけました。
一年半ぶりに海蔵寺を訪れました。
もと真言宗の寺跡に、建長五年(1253)に宗尊親王の命によって藤原仲能が本願主となり七堂伽藍が再建されました。主な建物の配置は、今もほとんど変わらないそうです。庫裡は萱葺きで、今回は冬で境内は色彩に欠けましたが、春に訪れたときには楓の赤い色と萱葺きが何ともマッチしていて見とれてしまった覚えがあります。
薬師如来は仏殿(薬師堂)に納められていて、じっくりと拝見することができます。この薬師如来には伝説があって、夜な夜な聞こえる啼き声のする場所から掘り出された薬師様のお顔を新たに造った薬師如来の胎内に納めて祀ることにしたそうです。この胎内の像は61年に一度開帳されるそうです。次のご開帳はいつなのでしょうか。
ご朱印をいただくには庫裡の扉にかかっている釣鐘を静かに叩くのですが、この音が頭の奥に染み渡るような何ともいい音色でした。とても感じのよい物腰の静かなご住職に御朱印を書いていただけました。ありがとうございました。
報国寺は足利尊氏の祖父である足利家時が開基、天岸慧広(仏乗禅師)の開山で建武元年(1334)に創建されました。開基については上杉重兼という説もあります。本尊は釈迦如来坐像で、境内には古くから孟宗竹林があり、「竹の寺」として有名です。
永享の乱(1438年)で敗れた鎌倉公方足利持氏の子義久がこの寺にて自害しており、足利氏の最初と最後のお寺です。
天岸慧広が元留学より帰国後に作った『東帰集』は、日本人の手による偈頌集(げじゅしゅう)として初めてのもので、国の重要文化財となっています。境内には木下利玄の歌碑があります。
六代執権北条長時が建長三年(1251年)に真阿を開山として創建されました。元弘三年(1333年)には後醍醐天皇の勅願所となる一方で四つの勧学院(浄土、華厳、真言、律)を建てて学問道場としての基礎を築きました。
本尊の阿弥陀三尊像は以前は2枚目の写真の古い仏殿に祀られていましたが、左に建つ建物の中に納められていて、雨天の場合は拝見することはできません。中央に阿弥陀如来、右に聖観世音菩薩、左に勢至菩薩が祭られており、土紋や脇侍の姿勢、写実的な衣などに宋朝様式の強い影響が見られます。現在本尊は写真右の古いお堂の隣の新しい建物に移されています。
西御門の来迎寺は、八幡宮よりさらに奥まった閑静なところにあり、永仁元年(1293)に一遍上人により開かれたとされています。本山は藤沢の遊行寺です。本尊は阿弥陀如来で鎌倉十三仏の第十番札所になっています。本堂にはほかに廃寺となった法華堂より移された如意輪観世音菩薩、地蔵菩薩、抜陀婆羅尊者像が祭られています。
関東大震災で本堂が壊れ、現在の本堂は1994年に建てられたものです。本堂の扉には仏像は美術品ではないので見学はお断りと書かれていますが、参拝は申し込めばさせていただけます。
前回三十三観音めぐりで訪れたときにはお堂の外からお参りをしましたが、今回は参拝を申し込み納経をしてまいりました。阿弥陀如来は亥年の守り本尊なので、今年生まれた息子のためにお守りをいただきました。
二階堂の奥まった谷(やつ)に覚園寺はあります。境内に入ってすぐの愛染堂の中央には愛染明王坐像、左に鎌倉十三仏である阿しゅく如来坐像、右に不動明王坐像が祭られています。
阿しゅく如来は七回忌をつかさどる仏で通常五智如来として作られるものなので、単体で祭られているのはめずらしいとのことです。両手に薬壷をもつその姿から、長い間薬師如来と思われてきましが、解体修復の際に阿しゅく如来であることがわかりました。
境内のさらに奥は寺僧の案内のもとに拝観することができます。(拝観料300円)
寺僧の案内で奥へ進むと、樹齢推定800年のイヌマキと1354年に建立されたとされる薬師堂があります。薬師堂は長年にわたって修理が加えられてきたため、創建当初の木材は残されていないそうです。極最近には屋根が修復され、美しい厚みのある茅葺に葺き替えられています。
お堂内部には正面に薬師如来、向かって右に日光菩薩、左に月光菩薩の国重文薬師三尊が祭られています。お堂の両脇の壁には向かって右奥から子丑寅兎辰巳、左手前から午未申酉戌亥の守護である十二将(国重文)が並んでいます。これらの十二将は明治の廃仏毀釈のときにバラバラにされてしまったものを修復したものだそうです。
薬師三尊の右奥には廃寺理智光寺の本尊であった阿弥陀如来坐像「鞘阿弥陀」がひっそりと祭られています。天井には龍と雲が描かれた雲龍図があり、その横には尊氏が「尊氏一三五四年再建」と書いたとされる梁があります。
もともと覚園寺は比叡山のような四宗兼学でした。後醍醐天皇の勅願寺で、国のために戦や疫病、災害などの祈祷をしてきたお寺だったそうです。
境内には他に手広から移築された江戸時代の旧家や、十三仏が祭られた手堀の洞窟、そして黒地蔵(国重文)が祭られているお堂があります。
約50分間の案内でしたが、さまざまな木々に囲まれた境内は静寂としていて古都鎌倉の空気がそのままそこにあるようで、ずっとそこに佇んでいたいようなそんな心地がしました。
本堂の扉は堅く閉ざされていて、扉の横に本堂に奉られている仏様の一覧が書かれた板が置かれいます。ただ、大日如来の名前がどこにも書かれておらず、どこか別の場所におられるのかと思いお寺の方に聞いてみました。でも予想とは裏腹に、板に書かれた「その他」に含まれているとのことでした。
ちなみに下の阿弥陀様は山門近くにある導地蔵堂の横にひっそりとたたずんでおられました。導地蔵堂は鎌倉二十四地蔵でいずれお参りします。
お寺についての詳細は「鎌倉三十三観音 極楽寺」をご覧ください。
極楽寺切通しの坂ノ下側に白い幟がたくさんはためくお堂があります。ひっそりとしたお堂と対象的に階段を上りきったところには大きな狛犬がお堂を守っています。虚空蔵菩薩は成就院が管理していますが、正式には明鏡山円満院星井寺のご本尊です。
お堂の階段の下には鎌倉十井のひとつ「星の井(星月の井)」があります。昔この辺りは山深くて昼なお暗く、井戸を覗くと昼までも星が輝いて見えたと伝えられています。お堂とこの井戸は関わりが深く、井戸に虚空蔵菩薩が現れたのを行基が像を彫ってお堂にまつったとされています。
この菩薩像は日本三大虚空蔵のうちのひとつで大変貴重なものだそうです。頼朝の時代には秘仏とされ、35年に一度だけ開帳されていたとのことです。現在は毎年1月13日に開帳され初護摩供養が行われています。
本堂正面には頼朝が運慶に命じて彫らせたといわれているお前立が置かれています。
近年心ない人によってお賽銭の盗難が相次いだため、お堂の前面には鉄格子が設置されています。何とも悲しい光景です。
虚空蔵堂をもって鎌倉十三仏は満願となりました。時間はかかりましたが発願から結願まで札所の順序通りにお参りすることができましたが、もっとゆっくりお参りしたい寺院がたくさんありました。ぜひまた時間をつくってお参りに訪れたいと思います。