やぐらとは鎌倉を取り巻く丘や山々を掘って作られた横穴の総称です。岩倉、谷戸倉、谷津倉などが訛ったものとか、中世鎌倉での洞窟や岩穴を意味する言葉であったという説があります。
一般的には方形に削られた玄室や羨道からなり、梵字や仏像の壁画があるものや五輪塔や宝篋印塔が置かれているものなどさまざまな種類があります。
現在確認されているもので千基以上あり、埋もれてしまっているものを含め、鎌倉市内には2千基以上のやぐらがあると言われています。
六国峠から瑞泉寺方面へ下る途中、貝吹地蔵を通りすぎて少し行くと左側の谷への道があります。ハイキングコースから折り返すように下るその道は、うっかりしていれば見落としてしまいそうなほどです。
草も生い茂り倒れかかっている木をくぐりながら、何とか道らしきところを下っていくとお塔の窪やぐらにたどり着きます。
1枚目の写真右側のやぐらがお塔の窪やぐらです。鎌倉で最古のやぐらだといわれています。
中にはかなり風化した多宝塔が安置されており、これは最後の得宗である北条高時の慰霊のためのものといわれています。
左側のやぐらには石仏が納められていました。
お塔の窪やぐらまでだいぶ下ってきたので、天園ハイキングコースにもどらずに十二所に抜けることにしたのですが…これがとんでもない道だったのです。
それについてはまた別の機会に。
建長寺の塔頭回春院の横を抜け、木々の生い茂る斜面を登って行くとあちらこちらにやぐらを見かけます。
さらに上へと進むと、天園ハイキングコースに抜ける少し手前にやぐら群が現れます。
斜面に向かって左側に風化の激しい数穴のやぐら群があり、そこより少し上がった右側に朱垂木やぐらがあります。
その周辺にあるやぐらと違って間口が広く、羨道には名前の由来となったベンガラの垂木柄がはっきりとしていて一目で朱垂木やぐらだと分かりました。
やぐらの正面奥には舟形の後背の浮き彫りがあり、近寄ると唐草模様のような曲線の線彫りを確認することができます。
すぐ左側の壁面には四角い枠のような形があり、その中に板碑のようなものが彫られています。入口近くの壁面にはいくつかの四角い穴が空いていて、かつては扉がつけられていた名残が見られます。
右隣のやぐらの入口にも同じように四角い穴があるので、こちらにも扉がつけられていたのでしょう。
朱垂木やぐらと右隣のやぐらは中で繋がっています。
朱垂木やぐらには龕などの納骨穴は見当たりません。ここは埋葬するためのやぐらではなく、このやぐら群の儀式を行う場であったのではないかといわれています。
やぐらに向かって右奥にも小さなやぐらがあり、草に埋もれてはいましたが道が続いているように見えました。
GPSと詳細地図を照合してみると、百八やぐらの向かいに出る道のようでしたが、さすがにそちらに進む勇気はなく、素直に天園ハイキングコースへ抜けました。
頼朝がこの世を去ってから、有力御家人たちが次々と北条氏に滅ぼされていきました。
「三浦の犬は友をも食らう」と言われてまで生き残ってきた三浦一族は、北条氏との対立のすえ北条時頼とその外祖父安達景盛に攻めいれられ、宝治元年(1247年)六月五日、源頼朝の法華堂にて主だったもの276名、一族郎党500余名が自害しました。
その中には幕府の重臣大江広元の子であり毛利氏の祖となった毛利季光も含まれています。毛利季光ははじめ北条方につこうとしていましたが、三浦泰村の妹である妻に説得され三浦方につき命を落とすこととなりました。
頼朝法華堂の東に連なる一角にひっそりとあるやぐらが、その自害した三浦一族の墓だといわれています。現在も五輪塔や石塔、そして供養のための卒塔婆が立てかけられています。三浦氏にゆかりのある私は、遠い遠いご先祖様が弔われているかもしれないこのやぐらの前でじっと手を合わせました。
明月院は1160年(永暦元)、山ノ内経俊によって創建された明月庵が起源とされます。
1265年(康元元)に北条時頼の私的な寺として創建された最妙寺がその後廃寺となり、それを中興する形で北条時宗が蘭渓道隆を開山として禅興寺を創建しました。足利氏満の命により上杉憲方が禅興寺を中興し大寺院となり、のちに関東十刹の一位となりましたが、明治の初めに廃寺となり、筆頭支院であった明月院だけが残る形となりました。
明月院の境内にある鎌倉で最大級のやぐらには、釈迦如来と多宝如来、そして十六羅漢の磨崖仏がやぐらの壁一面に彫られていて「羅漢洞」ともよばれています。このやぐらは豪族の山ノ内経俊が、平治の乱で戦死した父須藤刑部大輔俊道(すどうぎょうぶだゆうとしみち)の菩提を弔うために作ったと伝えられています。
後年になってそのやぐらには関東管領となった上杉憲方の宝篋印塔が置かれました。上杉憲方は足利氏満の命により禅興寺を中興、寺域を拡大し塔頭を整えた人物です。
壽福寺境内にはたくさんのやぐらがあり、現在も墓地として使われています。
その中には北条政子の墓と源実朝の墓といわれるやぐらがあり、その中にはそれぞれしっかりと形をとどめている鎌倉時代の五輪塔が安置されています。
写真2段目左、ユリの花がたくさん飾られているのが北条政子の五輪塔、右が源実朝の五輪塔だといわれています。ふたつのやぐらの間にも数穴のやぐらが並んでいました。
新編鎌倉志には実朝のやぐらのことを“唐草やぐら”や“絵かきやぐら”と書かれており今でも文様らしきものが見られるそうですがよく分かりませんでした。
北条政子も実朝も頼朝が父義朝のために建立した勝長寿院に埋葬されているため、壽福寺のやぐらは供養塔だとのことです。ただ双方のやぐらに納骨穴が存在するので、初めから供養塔として建てられたわけではないのではないかともいわれています。
葛原ヶ岡ハイキングコースの途中を入ったところの崖に、市指定史跡の瓜ヶ谷やぐら群があります。ただハイキングコースからの道がとても分かりにくく、私たちも三度目にしてやっとたどり着くことができたくらいの難所です。今回はハイキングコースからでなく、葛原ヶ丘公園から一度梶原の車の通る道へ出て北鎌倉駅方向へ少し下ったところからアプローチしました。車道から一歩入るとそこには田んぼとあぜ道が広がり、一瞬明日香村や当尾の風景を思い出しました。山の上の方を見るとハイキングコースを行く人影が見え、その近さに少し違和感を感じました。田んぼを過ぎてすぐの崖を登ると、目の前にはやぐらが大きく口を開けていました。
このやぐら群は五穴からなり、一番左の一号穴は幅4.7m、奥行き7m、高さ1.9mの大きなもので、中央に等身大の地蔵像が置かれていることから「地蔵やぐら」とも呼ばれています。
奥壁には大きな磨崖仏や五輪塔などが立体的に彫られています。二号穴と三号穴にも五輪塔の浮き彫りがあり、鎌倉のやぐらの中では壁面彫刻の多いやぐら群とされています。
崩れてしまった四号穴は、かろうじて中の様子を伺うことができましたが、五号穴は完全に入り口が埋まっていました。全体的に風化が著しいのが目立ちました。この雰囲気を壊さずに、これ以上風化が進まないようにすることはできないものでしょうか。
鎌倉ガイド協会主催のツアーで、瓜ケ谷やぐらを訪れました。以前単独で訪れたときには見落としていたことなどを追記いたします。
一番大きい1号穴は内部が20畳ほどあり、中に入ることのできるやぐらの中では最大級のものです。このやぐらは彫刻が多く施されているのですが、これらはこのやぐらの穴とともに岩盤から削りだされているため全てやぐらと一体となっているのには驚かされます。
中央にある大きな地蔵菩薩の磨崖仏には、よく見ると色彩が残されている部分があるそうです。
壁奥にも如来像と思われる大きな磨崖仏があり、その両脇に龕があり、右奥角には大きな五輪塔が掘り出されています。
左壁には龕が1基ですが、右壁には龕が4基あり、地面より1mほど上に地蔵菩薩立像や神像などの彫刻が並び、入口に一番近くには鳥居の彫刻もありました。
とても貴重な史跡のため、訪れた際には壁や磨崖仏などに絶対に触れないようにしてください。また、崩落の危険を避けるため大人数で中へ入ることも避けてください。
※龕(がん)とは、壁面に仏具や遺骨をおさめるための穴や棺のことをさします。
瓜ヶ谷やぐらの向かいにある西瓜ヶ谷の少し下ったあたりに、やぐらの森と呼ばれる国有地があります。木の根をたよりに斜面を登り平場を左へ行くとすぐに階段があり、それを上がるとすぐ数穴のやぐらが現れます。
一番大きいやぐらには、14基の浮き彫りの五輪塔があるために“十四やぐら”と呼ばれているとのことです。
やぐらは整備されてはいますが、そこへたどり着くまでにいくつもの蜘蛛の巣がはっていてめったに人が訪れることがないようでした。今まで様々なやぐらを見てきましたが、ここが一番背筋がぞっとするようなところでした。
この唐糸やぐらは御伽草「唐糸草子」にゆかりのあるやぐらです。
木曽義仲の命により頼朝に近づき動向を探っていた唐糸は、頼朝が義仲暗殺を企てていることを知り頼朝を殺害しようとして捕らえられてしまい、このやぐらに幽閉されてしまいます。
唐糸の娘の万寿姫は八幡宮で奉納の舞を舞い、頼朝にたいそう気に入られ「何でも褒美を与える」と言われました。
そこで万寿姫は母である唐糸を解放してほしいと願ったため、唐糸は解放されて万寿姫とともに鎌倉を去ったということです。
やぐらとしてはよく見られる大きさなのですが、捕らえられた唐糸が幽閉されていたところというにはあまりに小さく感じられるやぐらですが、柵がつけられていたことが想像できるような穴があいていました。
このすぐ隣のやぐらには地蔵磨崖仏が安置されており、この一帯で最大のやぐらだといわれています。
釈迦堂切通より西側の尾根に数穴のやぐらがあり、その中のひとつが日月(じつげつ)やぐらです。
やぐらの壁に掘られている納骨穴が日輪のものと、日輪を二重に掘って上弦の月のような形になっているものがあるために日月やぐらと言われています。以前このやぐらは人骨と泥で埋まっていたのですが、鎌倉学園の生徒によってきれいに整備されたとのことです。
日月やぐらの並びにも数穴のやぐらがあり、五輪塔がおさめられていました。
名越切通に隣接するまんだら堂やぐら群は、鎌倉市と逗子市にまたがっており、その大半が逗子市にあるために史跡の整備は逗子市が主体となって行っています。
文禄三年(1594)年の検地帳に畠の地名として書かれていますが、それ以前の文献では確認されておらず、まんだら堂がどのようなものであったのかは全くわからないということです。
普段は立ち入ることができませんが、11月の臨時公開のおりにじっくりと見てまいりました。
このやぐら群は小規模で単純な構造をしているものが多いのですが、保存状態も良く150穴以上あることが確認されています。五輪塔も多く置かれているのですが、元の場所から動かされたものが多いとのことです。
まんだら堂跡に入り最初の広い空間の突き当たりの崖をよく見ると、やぐらの階層が4段もありました。下の写真では3段までしか確認できませんが、向かって左上の方にもう一段存在します。
また他のところでは、やぐらとやぐらがつながっていたり、出口が崖のこちら側と向こう側に抜けるものがありました。
整備が行き届いているからか、今まで見てきたやぐらと比べて、不思議と明るい雰囲気のあるやぐら群でした。
覚園寺の少し手前から鷲峰山(じゅぶせん)に向かうハイキングコースを登っていくと、右手の崖上に大規模なやぐら群が現れます。これが百八やぐら群と呼ばれるもので、ここではほぼ全部のやぐらの形態を見ることができるそうです。
百八やぐらの名の由来は、「煩悩の数」や「たくさんある」などからこう呼ばれるようになったといわれています。
現在発見されているものは177穴ほどあるそうですが、分かりにくいところや立ち入り禁止の場所もあるので、この日見ることができたのはそのほんの一部のやぐらだけでした。
相馬師常は千葉介常胤の次男で、下総国相相馬郡を領した相馬氏の祖です。治承四年(1180)の頼朝挙兵に父常胤とともに加わりました。文治五年(1189)の奥州平泉征伐では戦功をあげ、頼朝より八幡大菩薩の旗を賜ったと伝えられています。相馬師常の邸は巽神社の向かいにあったようです。壽福寺の並びには相馬次郎師常が勧請した問い割れる八坂神社(相馬天王)があります。
晩年は常心と号して念仏行者となり、元久二年(1205)1月15日、自邸で端座合掌したまま67歳で往生を遂げ、その姿を鎌倉の民衆が見届けたとのことです。
岩舟地蔵堂から浄光明寺方面に100mほど行くと左に入る道があり、その正面に相馬師常の墓のやぐらがあります。この辺りは浄光明寺の裏側にあたり、周囲にはあわせて13穴のやぐらがあり「相馬師常墓やぐら群」と称されます。
このやぐらの玄室内には、大きな龕(がん、棺のこと)があり、その前には宝篋印塔と一石五輪塔が置かれているそうですが玄室内は暗くその様子を伺うことはできませんでした。
保存状態が良く、被葬者がはっきりわかっているため資料的価値が高いやぐらであるということです。
先日鎌倉ガイド協会主催の浄光明寺庭園拝観に参加してまいりました。庭園の撮影はいっさい禁止されていたため写真はないのですが、相馬次郎師常のやぐらと関わりのあるお話を伺うことができたので追記いたします。
本堂裏の切岸には大きなやぐらが4つあり、そのうちの一番左にあるやぐらは相馬次郎師常のやぐら群の一つに通じているということでした。現在本堂側は資材により塞がれ、反対側も入れないように塞がれているとのことです。