小紫式部 昔語り



その時代の中心地であった鎌倉では、時代に翻弄された人々もたくさんおりました。伝説ではなく史実として伝わる鎌倉を、折に触れて書いていきます。



■ 小坪合戦と衣笠城合戦        ■ 南宋の工人、陳和卿
■ 天神様になった菅原道真公      ■ 大姫のはかない生涯
■ 将軍実朝殺害の背景          ■ 中先代の乱


小坪合戦と衣笠城合戦

小坪より眺むる稲村ケ崎

畠山氏は坂東平氏のひとつ秩父氏の一族で、多くの東国武士と同様に源氏に仕えていましたが、源義朝が平治の乱で敗れ亡くなってからは平氏に仕えておりました。

治承四年(1180)八月十七日、その源義朝の三男である頼朝が挙兵したとき、平氏方であった畠山重能はこのとき大番役にて京にいたため、その嫡男である重忠が一族を率いて頼朝の成敗に向かいました。重忠はこのとき若干十七歳でした。
石橋山の戦いが終了したと知り畠山軍が高麗山あたりで休息をとっていると、頼朝の加勢に向かったものの悪天候の影響により合流がかなわず引き返してきた三浦氏の軍勢と遭遇したのです。
疲弊していた三浦軍は三浦義澄の下知により、ひそかに波打ち際を通りすぎることとなりました。畠山軍にとっても、今三浦勢と戦うことは何の益にもならないとわかっていました。
そのままこと無きに終わるかと思われたころ、三浦軍のしんがりをつとめていた血気盛んな和田義盛が、百騎ほどをひきつれて畠山軍の前に現れたのです。そして「我らを押し留めんとおもはば、押し留めてみよ」と高らかに宣言して走り去りました。
これを聞いて怒った畠山重忠は、「打ち立て者ども」と兵に下知し、すぐに和田勢を追い疾走しました。先を行く和田勢に追いついたのは、由井ケ浜の北辺あたりであったようです。
背後から矢を射立てられた和田軍は、小坪坂を駆け上がって急場の防衛を施すと同時に、和田義盛の弟和田義茂が守る杉本城に救援を求めました。
和田勢に防衛線が敷かれたのをみた畠山勢は、稲瀬川を背にして楯を掻きならべ、両者は睨みあう形となりました。このままの形勢が続くとわが軍にとって不利と気がついた畠山重忠は、和田軍に和睦を申し入れたのです。和田義盛もこれに異存はなく、双方はそのまま軍を引くこととなりました。

その直後のこと、急を知って杉本城より馳せ参じた和田義茂率いる援軍が現れました。和田義盛は和睦によって軍を引くことになったため、攻めるにあらずと手招きすると「攻めよ」と下知されたと勘違いした義茂勢は畠山勢に矢を射かけ、浜は大混乱に陥りました。義盛がさらに大きく退くように合図をすれば、ますます勘違いして攻めだす始末。
和睦を無きものとされ怒った畠山勢は、義茂の軍勢を取り囲みました。このまま傍観しているわけにいかなくなった義盛は畠山の軍勢めがけて突進したのです。
その頃になってようやく事を知った三浦勢が軍を戻してきました。小坪坂は一騎ずつしか通れないほどの狭さで、一気に攻めることなどできなかったのですが、それが長蛇の列に見えた畠山勢は形勢不利とみて軍を退くこととしました。この小坪合戦で双方に死者・負傷者がでました。

小坪合戦より二日後、畠山勢は味方の党を集結し数千騎を率いて三浦氏の本拠地である衣笠城を襲撃しました。
先日の合戦で疲弊していた三浦軍は夜まで耐えはしたものの、城を放棄して脱出することにしました。このとき、三浦大介義明は「この老いた命を武衛(頼朝)に捧げて、子孫の繁栄をはからん」と言ってひとり衣笠城に残り、八十九歳の坂東武者は憤死を遂げました。
実は畠山重忠の母はこの三浦大介義明の娘であり、義明にとって重忠は孫でありました。

この後、畠山氏は、石橋山より安房へと逃げのび味方の軍勢を増やしながら鎌倉入りを目指す源頼朝に起伏し御家人となり、畠山重忠はその清廉潔白な人柄から「坂東武士の鏡」と呼ばれるまでになるのでした。
しかしその畠山氏も後に非業の死を遂げることとなるのですが、その話はまた今度。

南宋の工人、陳和卿

橋の向こうに由比ヶ浜が見える

伝統工芸の鎌倉彫は、宋の彫漆工芸品「紅花緑葉」をまねて、運慶の孫である康運が経机などの仏具を作ったことに始まるといわれています。その「紅花緑葉」を鎌倉に持ち込んだ人物が陳和卿(ちんなけい)です。
では陳和卿とはどのような人物だったのでしょうか。

陳和卿は南宋の工人で、治承四年(1180)平重衡による南都焼討により焼失した東大寺の大仏鋳造と大仏殿の再建に尽力したといわれています。
東大寺再建供養のために上洛した源頼朝に招かれた陳和卿は、多くの人命を絶っているうちは、頼朝には面謁するのが憚れるといって会おうとしませんでした。頼朝はその陳和卿の言葉に感動し金銀や馬や鞍や甲冑などを贈りました。しかし陳和卿は造営の釘にするための甲冑など以外は頼朝へ返還したといわれています。
と、ここまで書いたことで判断すると陳和卿とはなんとできた人だろうと思うのですが、実は元久三年(1206)に後鳥羽上皇が『宋人陳和卿濫妨停止下文』というものが出されているのです。陳和卿の乱暴を停止すべしとは穏やかではありません。どうやら陳和卿は、怒っては人を見下して勝手なことをし、それに嫉妬狂気が加わり、所行は道理に合わないことばかりしていたようです。大仏治鋳のときには日本の鋳師を妬んで、その鋳型の中に土や瓦を入れたり、仏殿造営のための数丈の大きな柱を切り、それで自分の唐船を造ったりしたようです。これらの所行に対し上皇は「毛挙する遑にあらず」と書かれました。
これは陳和卿に対して反感を持つものによる讒言だったとみる説もあります。

ときに建歴元年(1211)、鎌倉では第二代将軍源実朝が急病になったときのことです。病気平癒の祈祷が行われるなか、実朝はある夢を見ました。
宋の国の名刹雁蕩山能仁寺の開山である南山宣律師が生まれ変わったのが、実朝自身だという夢でした。その夢で見たことは誰にも話すことはなかったといわれていますが、実は実朝が編んだ『金槐和歌集』にこのような和歌が詠まれています。

     世も知らじ 我も得知らず唐国の
     いはくら山に 薪こるとは

夢のことを誰にも話さなかったとされつつ、和歌で公表されていたわけです。
それから数年の後、後鳥羽上皇の下文が出されてから十年後の建保四年(1216)の六月、陳和卿は鎌倉を訪れ時の将軍源実朝に面謁を求めました。
実朝との面会がかない、面前に実朝が現れると、陳和卿は声を出して泣き始めました。陳和卿の言うことには、実朝の前世は宋の育王山阿育王寺の長老で、自分はその弟子であったので、あまりの懐かしさに泣いてしまったというのです。
実朝は陳和卿の言うことをすっかり信じてしまいました。そして自分の前世での住所を拝するために陳和卿に唐船造営を命じ、御家人たちにも協力すべしと命令がくだされたのです。北条義時らは必死にこれを諌めましたが聞き入れられることなく、翌年四月には唐船はついに完成してしまいました。
いよいよ進水の時を迎えました。御家人らが差し出した数百人の人夫により綱が曳かれましたが、唐船はびくともしません。五時間にもわたって綱が曳かれたようですが、結局船を浮かべることはできませんでした。
こうして莫大な費用と労力は全てが無駄になり、唐船は由井ケ浜で朽ちていくこととなったのです。

京都相国寺の僧侶瑞渓周鳳によって書かれた『善隣国宝記』によると、将軍の渡宋を何としても止めたかった鎌倉幕府高官らによって、船は動くことのないよう細工が施されたようです。

いづれにしても実朝は愚かであり、陳和卿は詐欺まがいの曲者であったということなのでしょうか。

天神様になった菅原道真公

荏柄天神社 古代青軸

日本三代天神のひとつ荏柄天神社に祀られている菅原道真は平安時代の貴族でした。学者の家系で、貴族としては中流にあたりました。しかし、道真は幼いときから学問に秀で、26歳のときには最難関の国家試験“方略試”に合格しています。
その才能を学問のみならず政治にも生かし、崩れかけていた律令制度を修復しようと試みました。宇多上皇は道真を重用し右大臣に就任させました。これは藤原氏をけん制するためであったといわれています。菅原の家系からいってこれは破格の出世でした。
これを藤原氏が快く思うはずがなく、時の左大臣藤原時平らの策略により大宰権帥(だいざいごんのそつ)という左遷のための閑職の地位に落とされ、大宰府へと流されてしまったのです。

   東風吹かば
   匂ひをこせよ 梅の花
   主なしとて 春な忘れそ

道真は都を去る時に詠んだこの歌は、あまりにも有名です。
梅をこよなく愛した道真は、延喜三年(903)都に再び戻ることなく大宰府の地で亡くなり、現在の大宰府天満宮の地に埋葬されました。

道真の死後数年がたつと、藤原時平が若くして病死し、東宮である醍醐天皇の皇子保明親王が21歳で薨去、その子である慶頼王を東宮にたてるも、2年後わずか5歳で薨去されました。また朝議中であった清涼殿に雷が落ち、大納言藤原清貫をはじめとする要人が多数死傷しました。
このように都では、道真を大宰府に追いやった藤原時平とつながりが深かったものたちに、次々と不幸なことが起きたので、道真のたたりだと非常に恐れた朝廷は、道真を赦免し右大臣に復しました。その後も正二位、正一位左大臣、太政大臣などが贈られたのです。
清涼殿の落雷事件以来、道真の怨霊は雷神と結び付けられて恐れられ、北野天満宮を建立して怨霊を鎮めようとしました。当時は怨霊が強力であればあるほど、強い神となると信じられていたようです。その後も長きにわたって大災害のたびに道真のたたりと恐れられ、天神信仰が全国に広まっていきました。
時がたち、道真への恐れも怨霊鎮めのために天満宮が建てられたことの記憶もうすれてくると、道真が生前はたいへん優れた学者であったことから学問の神様として信仰されるようになりました。

大姫のはかない生涯と時代に翻弄された三幡姫

寿永二年(1183)鎌倉は、対立していた源義仲(木曾義仲)の嫡男清水冠者義高を大姫の婿として迎え和議を結びました。要は人質です。このとき義高は11歳、大姫は6歳でした。しかしこの和議の関係は崩れていきます。
源頼朝追討の院庁下文を発給させ、鎌倉を打つ正当な理由を手に入れた木曾義仲に対し、翌年正月、鎌倉は源範頼、義経率いる軍を派遣しました。義仲軍は敵前逃亡などにより惨敗し、義仲自身も近江国粟津(今の大津市あたり)で討ち死にをしたのです。
同年四月、頼朝は禍根を断つために義高を殺害すると決めました。それを知った大姫は義高と同じ年頃の側近海野幸氏を身代わりとして置き、夜が明けやらぬうちに義高を女房姿にして隠し鎌倉から逃がしました。しかしその日のうちに事は露見し、数日後には武蔵の国にて追手に捕らえられ、藤内光澄に討たれました。享年12歳(数え歳なので、現代でいうと10歳か11歳。)の短い生涯を終えました。
義高討伐は内密であったのにもかかわらず、鎌倉に戻った藤内光澄が不用意な報告をしたために大姫の耳に入ってしまい、それ以来、大姫は悲嘆のあまり床に伏し、憔悴していきました。母である北条政子は、義高討伐を命じた頼朝を責め、また藤内光澄の配慮が足りぬせいだと頼朝に強く訴えたために、藤内光澄は討たれ晒首にされました。
頼朝は、義高の供養や大姫のための祈祷などに手を尽くしましたが、その後も大姫の心の傷は癒えないまま月日が過ぎていきました。
17歳になった大姫は、父頼朝によって一条高能との縁談を持ち掛けられたり、後鳥羽天皇への入内工作が行われたりしましたが、病状が悪化し、回復することなく建久八年(1197)わずか二十歳でこの世を去りました。

岩船地蔵堂

頼朝は莫大な犠牲を払って大姫を入内させようとしていましたが、天皇の外戚となるという野望はこれにより打ち砕かれたのでした。
その後も頼朝はあきらめずに、次女である三幡(乙姫)の入内に手を尽くしたのです。三幡は女御の称を与えられ、あとは入内を待つばかりとなりました。しかし大姫の亡くなった翌年の建久九年(1198)12月27日、馬入橋の橋供養の帰路体調を崩し、翌建久十年(1199)1月13日に息を引き取りました。享年53歳でした。
頼朝の死の原因は、落馬説、病気説、亡霊説、暗殺説、誤って殺害されたなどさまざまな説があり、武家政権を築き上げた名将の死はいまだ謎のままです。
頼朝の死から二月ほどたつと、三幡は高熱により日を追って憔悴していきました。三月程して食事を少し取るまでに回復したそのわずか数日後、容体は急変したのです。ぐったりとして瞼がに腫れるなど異様な様子で、回復の見込みもなく頼朝の死からわずか5カ月半後の6月30日、14歳でこの世を去ったのです。 三幡の死にも諸説あるようですが、毒殺説が有力なのではないかと思えてしかたがありません。

将軍実朝殺害の背景

倒れる10カ月前の大銀杏 2009/5/30撮影

健保七年(1219)1月27日、その日は雪が二尺(約60cm)も積もるほどであったと記録に残っています。
鶴岡八幡宮寺への参拝の身支度をしているときのことです。鎌倉幕府の重臣大江広元が「成人後は未だ泣く事を知らず。しかるに今近くに在ると落涙禁じがたし。これ只事に非ず。御束帯の下に腹巻を着け給うべし。」と訴えのですが、実朝の教育係りでもあり後鳥羽上皇との連絡係りでもあった源仲章が「臣大将に昇る人に未だその例は有らず」と言い、それを止めたとのことです。
実朝はこのとき整髪を行ったものに自らの髪を一本与え、そして庭の梅を見て「出ていなば 主なき宿と成りぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな」と詠んだと言われています。
八幡宮寺の楼閣をくぐると、北条義時は覚園寺の戌神将の使いである白い犬を見て気分が悪くなったとして、実朝の太刀持ち役を源仲章託して帰宅してしまいました。(北条義時は1217年に覚園寺前身の大倉薬師堂を建立し、そこに十二神将を祀りました)
参拝を終えて退出しようとしたとき、実朝は甥の公暁に切りかかられて命を落としてしまったのです。享年28歳でした。公暁は次に太刀持ちをしていた源仲章に切りかかり殺害しました。公暁が殺したかったのは北条義時であり、仲章は間違えられて殺されたと言われています。
公暁は祖母北条政子の意により、建保五年(1217)に鶴岡八幡宮寺別当に就任していました。そのときからすでに暗殺を考えていたのかもしれません。
公暁は実朝の首を抱え、八幡宮寺裏の備中阿闍梨の坊に行き、そこで実朝の首を抱えたまま食事をしたとのことです。そこで自分の乳母の夫である三浦義村へ書状を持たせた使いをやったのですが返事は無く、業を煮やした公暁は三浦義村の邸へ行こうとし裏山に上ったところで三浦の追っ手に遭遇し、追い詰められて三浦義村邸の門前にて殺害されました。
実朝の首は見つからずじまいで、亡骸とともに髪結いに与えた髪を入棺して勝長寿院に葬られました。
公暁の墓は無く、墓に関する伝説すらも存在しないと言われています。
拝賀式当日のこれに関わる人々の言動は、北条義時も大江広元も、そして源実朝自身もこの日暗殺が行われることを知っていたのではないかと思わせます。
そして愚かな公暁に暗殺を持ちかけたのは三浦義村であったのではないでしょうか。実朝を亡き者とし、公暁を次の将軍に据えれば、乳母の家系である三浦氏の時代が来るとの算段だったのではないでしょうか。
しかし、形勢が不利なほうへ動いたと判断し、公暁を打つことによって自らの計画を闇に葬り、自分の身を守る行動に出たのではないでしょうか。
おろかにも大きな力に踊らされていた公暁、そして何も知らずに太刀持ちを代わったばかりに殺害されてしまった源仲章・・・なんとも不憫に思えてしまいます。

中先代の乱(なかせんだいのらん)

浄光明寺 古い仏殿

信濃の諏訪頼重らに擁立された14代執権北条高時の遺児時之は、建武二年(1335)7月、鎌倉幕府復興のために挙兵しました。
時之は足利直義を武蔵で破り、鎌倉を占拠したのです。敗れた直義は鎌倉を落ちる際、家臣の淵辺義博に命じて幽閉していた護良親王を殺害させました。
時之軍制圧のために出陣した足利尊氏に、征夷大将軍の号が与えられました。尊氏は直義と合流し、橋本や中山、相模川など各所で時之軍を破りました。
鎌倉を占拠していた時之たちは逃亡し、時之を擁立した諏訪頼重らは自害しました。わずか20日間の支配でしたが、先代の北条氏、後代の足利氏との間を支配したことで、「中先代の乱」とよばれています。
このとき足利尊氏は、建武政権の上洛命令を無視し、乱の制圧に尽力した武士に勝手に恩賞を与えたりして、建武政権から離反しはじめました。その後も時之は各地に潜伏し、南朝から朝敵免除の綸旨を受けたのちは南朝に属して足利方と戦いましたが、正平7年/文和元年(1352)に捕えられ、翌年鎌倉で処刑されています。