三方を山に囲まれた鎌倉は、切通が重要な交通手段でした。鎌倉の外との重要な出入口とされたものを、鎌倉七切通や七口と呼びます。
切通とは、その名のとおり山を削って道を通したもので、交通路であると同時に外敵の侵入を防ぐための重要な拠点でもありました。馬一頭がやっと通れるくらいに道を狭くし、わざわざ見通しのきかない造りにしてあります。鎌倉七口のいくつかは、斜面を垂直に削りとった「切岸」や監視や投石などの拠点に使われた「平場」などの跡を見ることができます。
七口のうち、極楽寺以外はみんな国指定史跡となっています。
極楽寺の開山である忍性が切り開いたとされます。切通は坂ノ下から成就院の崖の下を通り極楽寺門前へと続いています。往時は京都と鎌倉を結ぶ重要な道であったようです。
新田義貞の鎌倉攻めの際、大館宗氏を大将とする軍がこの切通から攻め入ろうとしましたが失敗に終わり、新田軍は稲村ガ崎から攻め入ることになりました。
往時、この切通は成就院山門に近い高さを通る難所であったようですが、現在はご覧のようにかなり掘り下げられ、完全に舗装された自動車道路となっており、当時の面影をあまり見ることができません。
この切通は鎌倉から三浦へ抜ける重要な道でありました。
日本武尊が東夷を制圧するために通った道ともいわれています。
難所であった→難越え→名越のように名前がついたそうです。鎌倉七切通の中で最も早く整備された可能性があり、
他の切通に比べかなり軍事的な色が濃いのは、鎌倉幕府執権であった北条氏が三浦氏を恐れてのことであったと想像できます。
曼荼羅堂跡から合流したあたりに大きな置石が2つあり、そこから逗子方面へ向かうと岩肌が粗く削られ、狭く切り立った岩が迫る場所が、大空とう(おおほうとう、とうは山偏に同)とよばれる一番の難所です。以前ここが通行禁止だったころに造られた迂回路を行くと、大空とうを上から見ることができます。
左の写真は名越切通一番の難所と言われ、人がひとり通れるくらいの幅しかありません。このあたりの崖にはたくさんのやぐらがあり、訪れたときには樹木が整備されていたおかげではっきりとそれらを見ることができました。
このあたりの岩肌は荒々しく削られています。この先はすぐに住宅地になるので、逗子側の出口を確認してから来た道を引き返しました。
さきほどの合流地点にあった置石を過ぎるとくだり坂になり、足場は階段状になっているものの苔むしていたりして悪く、倒木の下をくぐるようにして下っていきます。しばらくして周りの草木にシダが目立ちはじめるとそろそろ切通は終わりで、すぐに横須賀線の線路が見える崖の上に出ます。振り返って来た方を見ると、とても国の史跡「名越切通」への道があるように見えないのが複雑な感じがしました。
鎌倉幕府初代別当の和田義盛の三男で豪傑な朝比奈三郎義秀が、一夜にして切り開いたという言い伝えから名前がついたとされています。
実際は仁治元年(1240)に鎌倉六浦間を切り開くことが決まり、翌年4月に着工されたとのことです。3代執権北条泰時も進んでそこへ出かけ、監督をしていたと吾妻鏡に書かれています。
鎌倉七口のなかで、往時の姿を最も留めている切通です。
道から横道に入ってしばらく行くと地面がアスファルトから土に変わります。そのほんの一歩の違いで、空気が様変わりするのには驚かされました。ぽつりぽつりとあった民家が途切れると、どの時代にいるのかさえ分からなくなりそうな空間が待ち構えていました。切通へ入るところには杭が打たれており、すぐ横に三郎の滝の流れを見ることができます。かつてこの三郎の滝の向こう側には源頼朝の命により梶原景時に誅殺された総介広常の邸がありました。
鎌倉側から切通に入ると太刀洗川と交じり合いながら進む500mほどの上り坂になっており、写真のように道はところどころ浅い小川の中を歩いているような状態です。切通の道は侵食され苔むしています。
しばらく上っていくと、道端に石造が置かれていて、石板には「浄誉・・・菩提也」、「干時延宝三乙卯年十月十五日」と書かれているように読めます。延宝三年というと1675年にあたるので、けっこう古くからあるもののようです。
道が乾きだすとそろそろ峠で、いつのころのものなのかわかりませんが仏様が彫られているのが目に入ります。朝比奈側の下り道には泥濘はほとんど見られません。子どもを背負っての行程だったので、全て抜けるまで30分ほどかかりました。
浸食などはあるにせよ、鎌倉側はほぼ昔のままと言われています。はるか昔に思いを馳せながら、とても充実した気持ちになれた時間でした。
この切通は新田義貞の鎌倉攻めのときには激戦地となりました。
名前の由来は、ここで平家の武将の首に化粧をして首実検したからとか、この辺りには娼家が立ち並び、化粧をした女たちがたくさんいたからだとか、木々が勢いよく生えていたからだとかいわれています。
現在では切通のすぐ近くまで民家が建ってしまったため、往時よりもだいぶ距離が短くなったとのことです。それでも通ってみればかなりの難所であったというのが実感できます。
この切通は急な上に常に湧き水で濡れているため、足元のしっかりとした靴で行かれることをお勧めします。
秋にここを訪れたときは秋の三連休ということもり、この近くのハイキングコースも人であふれていました。ただ、割と初心者向けのコースとはいえ、スカートにヒールのブーツという姿の観光客をちらほら見かけたのには驚きでした。特に仮粧坂は道幅いっぱい湧き水で濡れている場所が数メートル続くので、なめてかかると危険です。
この日は「二度と来たくない」とか「真ん中に柵を作ればいいのに」などおっしゃっている方々とすれ違いましたが、鎌倉の山道は下調べなどをしっかりなさって、無理だと思ったら別のルートを選ぶなどしてくださるようお願いいたします。
下から登るとかなり地面が湧き水で濡れていますが、右に折れるあたりからの道は乾いています。ただこれより先もやさしい道ではなく、道の真ん中に大きな置石があったり、段差がかなり高い上に砂地で滑りやすい道になっています。
仮粧坂を登りきると道が終わってしまうことをずっと疑問に思っていましたが、最近ある文献と出会い、登りきったあたりに反対側へ下りる道があるということを知りました。実際に行き、その存在を確認してまいりましたので追記します。
そこは「七曲」とよばれる坂で、その名の通り幾度も折れ曲がっています。降り口に立つと、木々の間の細い道を縫うように下る砂地の急坂が見えます。距離としては短くすぐに銭洗弁天に続く道にでるのですが、足元のしっかりとした靴でないと降りるのに苦労しそうな坂です。
この日はいつものトレッキングシューズを履いてこなかったため、下まで降りるのは次回へ持ち越しとなりました。
仮粧坂を登りきると、林の切れ間に反対側へと降りる道らしきものを確認することができます。
ここは解雇された将軍たちが、京へと戻される前に佐助の北条屋敷に入るために通ったとされる道ではないかといわれています。
下までの距離は短いのですが、ここはかなり急な上に砂地に落ち葉が沢山落ちていて、とても滑りやすく用心していかないと危険なところです。大人だけならば足元さえしっかりとした装備をしていれば大丈夫ですが、2歳児を歩かせながら下るのはとてもとても怖かったです。
建長二年(1250 )、3代執権北条泰時の命により切り開かれたとされています。
鶴岡八幡宮の西側から円応寺前に抜け常陸・奥州へと続く道でしたが、現在は途中で寸断されていて通り抜けることができません。
新田義貞の鎌倉攻めの際、堀口貞光を大将とする軍がこの切通から攻め入ったとされています。
ちなみにこの切通を抜けたところにある鎌倉第五山の一位建長寺の山号は「巨福山」です。
扇ガ谷の岩舟地蔵堂の前の道から建長寺門前近くへ抜け、武蔵へと向かうための切通でした。現在は整備されて傾斜もゆるやかになっていますが、昔は亀がひっくり返るほどの急勾配であったことからこの名がついたとされます。
以前5月に訪れたときには、坂の脇に白いシャガの花がたくさん咲いていました。今回は7月だったため両脇に植わっているアジサイもすっかり咲き終わっていましたが、その季節にくることができたらきっと綺麗なのでしょうね。 現在も生活道路として使われています。
札所めぐりで極楽寺を訪れた日は天候に恵まれたため、その足で念願の大仏切通へ向かうこととなりました。
難関だということなので、下調べや装備はしっかり準備して向かいましたが、目指していた火の見下バス停近くの入り口は「がけ崩れのため通行止」と書かれ、ロープが引かれていて入ることができませんでした。そこでいくつか調べておいたうちの一つの入口へ向かいました。
住宅地を囲む道路から切通へ一歩入ると、そこにはもう外界から隔離されたような空間がありました。ただ交通量の多い道路のすぐ脇だけあって、常に車の走行音が聞こえてくることに違和感を覚えました。
がけ崩れがあるということなので、火の見下方面へ向かって行けるところまで行って戻ろうということになり向かったのですが、切り通された高低差のある道や崖に感動しながら歩いているうちに、崖にやぐらのある空間に出たと思ったら、あっという間に火の見下の入口に辿り着いてしまいました。ここまでの道中はがけ崩れらしい場所はまったく見当たらなかったので、どうやら入ったところより左へ向かった方が崩れているのだろうと予想しました。それならばそちらへも行けるところまで行ってみてから戻ろうと向かったのです。
途中きれいに整備された階段があり、登り始めると何やら岩のかけらのようなものが落ちていました。階段を登り切ると、やはり道の脇に岩のかけらが・・・。ここまで来てしまったからには今のところを引き返すよりも崖が無い先へ進む方が安全と思いそのまま進むと、すぐに大仏ハイキングコースと合流する階段にでました。
階段の昇り口には「立ち入り禁止」の看板とロープが張られていましたが、ここから引き返す方が危険なため、そこをくぐって出てまいりました。
がけ崩れはこの合流地点からすぐの所にあり、主だった入口の火の見下バス停近くと大仏ハイキングコースとの分岐点にしか「立ち入り禁止」と書かれていなく、別の入口から入ったために通り抜けてしまいましたが、後からだいぶ怖くなりました。
危険なので、皆さんはくれぐれも通り抜けないようにしてください。(現在は危険個所は整備されて一般公開をしているようです)
六浦道を金沢方面へ向かい、大御堂橋を右に入って滑川沿いに300mほどのところを右にまがると、そこが釈迦堂ヶ谷へと続く道です。
新興住宅街を抜けるとすぐに通行止の立札があり、道幅の半分以上が閉ざされています。そこを抜けて鬱蒼とした林の中を行くと、急に目の前に巨大な洞門があらわれます。それが釈迦堂の切通です。
洞門自体の距離は短いのですが、とにかくその大きさに圧倒されます。
洞門の中にはやぐらがあり、五輪塔が何基か置かれているのですが、五輪塔の間にはたくさんの石が入り込んでいて、崩れた形跡が見られます。
ちょっとドキドキしながら早足で洞門を抜けたところで、ふと上を見上げると、そこは削られた崖と豊かな緑と光が見事に調和していて思わず見とれてしまいました。大町側の上部には、崩れてしまったやぐらの跡らしきものを見ることができます。
今回は大御堂橋の方から林を抜けて行きましたが、大町側から行くとすぐ近くまで住宅があり、本当に突然洞門が現れるので初めて訪れた人はとても驚かれることでしょう。
崩れる危険性があるため通行止になっているのですが、かなりの人が通って行くのを見かけました。
4月に崩落があり立ち入り禁止になっている釈迦堂切通の現状を見てきました。大町側の山肌が想像以上の規模でごっそりと崩れていました。
これは復旧は困難かもしれません。
熊野神社付近からトンネルの上を通って大船高校裏門あたりに抜ける切通です。細い道を登りだしてすぐに切通が現れます。少し広くなって左にも道らしきものがありそうなところに出ると、左の崖に隙間があったので近づいてみると、洞門のようなところを埋めたあとだとわかりました。
登りきってトンネルを越え、さらに進めば大船高校が見えてきます。(地図は次の長窪の切通に記載)